MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

勉強万能説の呪縛 私はあなたに論破されるための存在ではない

勉強のモチベーションが低い(正しく言えば、低い時が多い)のは、「勉強したところで何も変わらない」という諦めがあるからだ。大学の勉強は、私の人生にとって何の意味もなく、決して私を助けてはくれないと思う。料理、ファッションやメイク術を教えてくれるなら嬉々として通うのに、なんて感じたりもする。

 

他にも、嫌になってしまうのは、学びに励んでいる自分自身が強く正当化されている点にある。教養主義とも表現できる。教養を積むことが推奨され、教養のある人が偉く、不完全な学びに基づく行動を良しとせず、ややもすれば冷笑するような風潮がある。意見を言うにしても、ある程度の知的水準を満たしていないと、そんなことを言う前に勉強した方がいいよ、あいつは無知を晒しているだけ、といった具合に。実学はすぐに使えなくなる、教養がある人の話には深みがあって面白い、コミュニケーションに必須であるといった言説が、因果関係が吟味されないまま、学ばない人に対する差別意識ともに生産されているように感じる。深みがあるというわりには、ものすごく狭量な価値観だと思う。

 

かつて大学生3人が途上国のスラム見学のためにクラウドファンディングを募り、バッシングを受けたことがある。批判を招いた原因は、費用に交通費が含まれていたこと、スラムに対して偏見的な見方が述べられていたことなどにある。私もこの企画を見たときに、自己満足な印象を受けたし、価値観の押し付けともいえる内容に、否定的な気持ちを抱いた。知識や経験のある人からすれば、アドバイスするまでもなく、一笑に付したくなったのも理解できるところがある。

 

しかし、完璧でなければ行動を起こしたり、支援を頼んだりしてはいけないというルールはない。西野亮廣さんの著書『新世界』で、この件について触れられているが、一時の感情で否定しまえば、今後の人生においてクラウドファンディングという選択肢を失うことになり、自分の人生の可能性を減らしてしまうことになるという。

もし、自分が同じような状況になれば、自らに完璧さが要求されることになる。本当にその企画が適切だったかは保留するにしても、批判の中には、不勉強な他者を冷笑したいという気持ちが混ざっていたのではないかと自戒の念も込めて、そう思う。勉強や努力を最大限行えば、他者に支援を頼んでいいという論理が、誰にとって有利なのかは、考えないといけない。

 

もっと言ってしまえば、行動を起こす以前の段階、自分の意見を述べることにすら、勉強を要求されてしまうのかもしれない。意見を言うと、不勉強なだけ、視野が狭い、こんなことも知らないなんて、というものから、不満だけじゃなくて建設的な対案を示したらという親身そうな「アドバイス」まで、いろいろ反応が返ってくる。けれども、論理的でなければ、知的でなければ、自分の考えたことを言ってはいけないというルールはどこにも存在しない。無知であることを開き直るのはどうかというのもあるけれど、誰もが勉強する機会を等しく与えられているわけではないから、意見を発する前提に勉強を課すことには反発を覚える。知識がなければ、何も言えずに黙り続けなければならず、「感情的」になっていて「論理的ではない」自分自身を罰さないといけないのだろうか。自分の感じたことや思ったことを表明することは、一部の頭のいい人の専売特許なのだろうか。

 

こういうわけで、私は、何か一つ発言するにも、すごく臆病になってしまった。勉強熱心な人の話は面白いというけど、知識を一方的にまくしたてる人にも多く出会ってきた。学会でもないのに、ちょっとした意見や感じたことを言ってみただけで、どうして徹底的に論破されないといけないのだろうと思う。また、知識の総量を上回ったり、相手を論破したりするために、勉強しているわけではない。この世界に存在する実際の苦しみに目を向けずに、大学にこもって学問に励むことを褒めるのは、驕りにしか見えず、全く心に響かなかった。

 

だったら、教養主義から抜け出そうというのが最近の考えで、不完全さにも寛容であろうとしている。そして、学問と行動を一致させたいとも思う。実践を伴わせようと心がけるようになった。実践といっても難しい場合もあるから、その場合は自分ごとにあてはめて考えることにする。こうすることで、自分や周囲の状況を何か変えられるかもしれないと思って、そのヒントを探すつもりで勉強できるようになった。

 

物騒な例えになるが、私にとって、学問は、戦うための武器なのかもしれない。強力な武器を持っていれば、敵に襲われても、自分の命を守ることができる。素手で何百回、何千回殴っても壊れなかった城壁でも、たった数発の投石器で打ち壊されることもあるだろう。しかし、優れた武器を手にしていても、使い方が分からなければ、もしくは戦う気力がそもそも無ければ、実戦では役に立たない。逆に、何も持たずに血の気盛んに突撃するだけでも、集中砲火を浴びてしまう。大事なのは、武器と武器を使うための条件が揃っていることである。

 

興味のない武器のコレクションは、飾っているだけならただのモノでしかない。自分の身を守るために役に立った時、その武器は私の人生にとって、意味のあるものに変わる。押し付けられた見方にしぶしぶ従うぐらいなら、そんな思い込みに満ちた自己正当化もあっていいんじゃないだろうか。