MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

努力主義の呪いとガンジーの氷山

私が存在し続けるためには、自分自身の価値を証明しないといけないと思っていた。家庭でも、学校でも、ずっとそうだった。

人の役に立つ人間であることを証明しないといけない。

周りの人よりも優れた人間であることを証明しないといけない。

自由や幸福は何もしなければ手に入らず、競争に勝つことで与えられるご褒美である。

その競争に敗れた者は、自分自身の価値を証明できていないのだから、それ相応の仕打ちを受けても仕方がない。

 

この考え方には、感謝もしている。たとえ不安定で毎日やりきれない思いをしていたとしても、努力さえすれば、いつか未来に希望が訪れるというメッセージだったからである。勇気を与えてくれる言葉ですらあった。

 

しかし、今では、同意できない言葉になった。というか、無数にある価値観のうちの一つでしかないと思うようになった。世界共通の原理でもないし、全員が信じないといけないものでもない。信じたい人は信じればいいけど、その言葉によって、自分の行動や思考が縛られてしまうなら、「呪い」でしかない。そんな呪いによって、自分や大切な人が傷つくのは見たくない。

 

じゃあ、今の社会が「みんなちがって、みんないい」ように出来ているから、安心して怠けよう!と呼びかけることは、あまりにも無責任だし、現実にも合っていない。努力ができることや能力が高いことが、生きやすさに繋がることは否定しがたい。社会が変わる感じもしない。綺麗ごとに惑わされるよりも、残酷なメッセージを信じる方がよいのかもしれないとすら思えてくる。

 

けれど、呪いの言葉を語り続いていく必要なんてない。現実はこうかもしれないけれど、私はおかしいと思っている、変わっていくべきだと信じている、というスタンスでよいのだと気付いた。これまでの社会で信じられてきたことを、ご丁寧に引き継ぎ、その価値観を存続させるために生きていく義理なんてどこにもないのだから。呪いの被害者であっても、加害者になろうとは思わない。自分の価値や可能性を他人に委ねることを支持しないのは確かであり、もし面従腹背にならざると得ないとしても、心の中まで明け渡したわけではない。信じたくない呪いを無理やり信じ込もうとして、呪術師の一員になろうと躍起になることとは、決定的に異なる。

 

心の底で割り切れない思いを抱き、葛藤することは、最終的には社会を変えてしまうほどの力にもなりうるとも思う。先日、『ガンジーの氷山』という話を聞いた。平和運動を氷山に例えたもので、氷山の先端は、大行進といった実際に社会を変えていく実感のある行動があてはまる。しかし、氷山は先端だけなら海を漂う小さな氷の欠片でしかない。氷山の先端の下には、小さな個別の取り組みがそれを支えている。ただし、これも水面上で見えている範囲でしかなく、氷山全体からすれば、ほんの一部分でしかない。では、水面下にある大きな部分は、何にあたるかといえば、悩んだり、自問自答したりする過程の中で、価値観や心のあり方が変わっていく「自己浄化」だという。この話は、納得しえない出来事に対して、行動を起こせなくても、考えるだけで、よりよい方向に未来を変えていけるという意味を与えてくれたように思えた。これも、不満に思うことがあるなら行動すべきだ!という言葉に縛られていたということなのかもしれない。行動しないのなら不満に思ってはいけないというルールはどこにもない。

 

この話も、「呪い」の言葉と同じく、信じることは誰にも強制されないものだ。ただ、何を信じるか、何を信じたいか、を決める権利は私自身にある。