MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

東大の学歴に基づく優越感、差別意識を批判します

 大学の居心地の悪さの一因に、選民意識、差別意識が蔓延していることがある。もちろん全員ではないし、他の大学でも多かれ少なかれみられることだが、批判されてしかるべきだと思う。キャンパスの雰囲気を変えるためには、黙っているだけではなく、意見を述べることが大切であり、私にはせっかくブログという媒体があるので、ここで主張を残しておきたい。

 もし、炎上して当局に呼び出されたら、その時は大学に対して思うことをまとめて陳情すればよいので、書いてみることにする。第一、これは、東大へのネガティブキャンペーンではなく、本来の社会的使命を果たして、真に大学の価値を高めるように呼び掛けるもので、本当に東大を貶めているのは、選民思想に浸り、差別を行っている人々だ。

 なお、情報源については、私が実際に見聞きした内容、他人からの伝聞、インターネット上での情報になる。あくまで主観に過ぎない点は、ご容赦願いたい。

 学歴も割りばしの袋から箸置きを作ることも同じ

 東大生であることは、単純には、東京大学の入試に合格し、所定の課程を履修しているに過ぎない。他の大学生なら、大学名が変わるだけで価値の優劣は存在しない。しかし、偏差値で最上位に序列づけられることで、「日本一賢い」だとか「優秀」というイメージが生まれる。また、その能力は、実際には受験の点数が一定以上であることに過ぎないのに、才能がある、努力家、人格者、人望があるという意味を帯びる。これらは、世間一般で受け入れられている考えだけに、東大生であることに優越感を抱くことは容易に想像される。入学後も、学歴による様々な恩恵を受けて、その優越感は維持、強化される。この優越感は、東大生ではない人々との比較によって成り立つものであり、差別の要素を必然的に含んでいる。

 気分が悪くなるので引用しないが、強制わいせつや性的暴行で逮捕された東大生たちの、被害者の人格を軽んじた供述や、テレビに出演する東大生タレントらの優越感に満ちた発言は、パフォーマンスでもなんでもなく、学内の雰囲気を象徴するものだと思う。

 学歴による優越感が悪質なのは、その差別が正当であると信じられていることにある。例えば、野球がうまい人が、野球の能力に優越感を覚え、自分より野球が下手な人を見下したとしても、野球をやっていない人からすれば、何も関係ない話である。そもそも競争に参加していないのだから。一方で、学歴の場合は、大学受験なら、大学を受験した全ての人たちが競争に参加したことになり、東大を受験したかに関係なく、ほとんどの人が東大より「下」の大学に入ったことにさせられる。全員が受験に等しく関心を持ち、等しく東大に入りたいと思い、等しい条件で競争しているという事実は存在しないにも関わらず。さらに、大学を受験しなかった人たちに至っては、多くの場合、競争に参加する能力がなかったとみなされ、不戦敗ともいえる位置づけを与えられる。だからこそ、人間の価値の尺度として、野球のうまさではなく学歴が使えるように錯覚させられる。学歴に興味がないといえば、負け惜しみのように受け取られる。同世代の中でトップ3000に入るぐらい野球がうまい人と、受験で高得点をとった人(≒定員3000人の東大生)のどちらが、社会で「評価」されるかということである。

 居酒屋で学生証を出したとき、成人式で地元に帰ったとき、難しい話が他大学で通じなかったとき、親戚に褒められたとき、東大トークに酔いしれるとき、その他、どんなに素朴で単純な優越感であったとしても、無自覚な差別意識に支えられているのではないだろうか。にもかかわらず、何の断りもなく、東大生であることへの優越感の表明が、共通言語のように繰り返されている状態は、決して望ましいものではない。

 では、どうすればよいのかということになるが、まずは一つひとつの言葉や感情の背後に、どのような思考回路が働いているのかに思いを巡らす必要がある。そうして行きつく先は、喜びの感情を封印することではない。学歴でも、スポーツでも、歌でも、イラストでも、割りばしの袋から箸置きを作ることでも同じように評価し、認め合うことである。すぐには変わらないだろうが、そんな社会になれば、どんなに素敵だろうかと思う。大学が、その先駆者となれば、新たな誇りを手にすることが出来るだろう。