MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

それって私が悪いの 全部社会のせいだ

私が無責任で情緒不安定で怠慢だとして、その責任は私にあるのだろうか。全部社会のせいにしたくなる。私だって、自分の生きている価値を信じられるほど、安心して過ごせる環境さえあれば、もっといい性格になっていたはずだ。幼いときは、粘り強くて諦めないことを評価してもらえたときもあった。どれだけ嫌なことでも一区切りがつくまではやりとげる力があった。今は、ひとつでも不快なことがあったら全部が嫌になり、すぐにやめてしまう。急に休んだり、連絡がとれなくなったりすることが、どれほど周りに迷惑をかけ、信頼を失うのかは、もちろんわかっているけど、同じことを繰り返してしまう。他の人からは、もともと無責任な人間だと思われるし、自分でもそう思う。でも、そうなったのは私のせいじゃないって言いたい。

困難を乗り越えられた人には、過去の成功体験や周りのサポートや頼れる人がいたからこそ、最後まで諦めずに進めたのであって、救いのない状況が幾度ともなく繰り返されたら、どんな人だって努力することが馬鹿らしく思えてくるんじゃないだろうか。私にとって、諦めて逃げることは、これまでの人生から学んだ知恵になっている。私に悪いところがあるのなら、それは学習された結果であり、そういう風に教えてきたのは今の社会だ。社会に責任があることを、私ひとりの責任にしないでほしい。どんなに走ってもボールに追い付けなくて、やっと近づけたと思ったら、すっとかわされることの繰り返しだった体育の授業を思い出す。どれだけ頑張っても、チームに貢献できないからずっと走るだけ。ボールに触れないまま、ゲームが終わることは日常茶飯事。ずっと走っているだけだから、技術が上達するわけでもない。誰かが気にかけてくれるとすれば、チームの負けの責任を押し付けられるときぐらいだ。運動は大嫌いになり、もうスポーツに関連するものには関わらないようにしている。 その時は、運動が出来ない私が悪いと思っていた。けど、周りが同じぐらいの体力やレベルだったら、興味を持って取り組めたと思うし、教え方次第では運動が大好きになっていたかもしれない。私は、運動が嫌いなんかじゃなくて、嫌いにさせられたと言っていい。そうやって、いろんなものを嫌いになり、そして自分自身を嫌いになった。

無力感に打ちひしがれ、諦めが板につく。そんな経験を繰り返すことを成長と呼ぶのだろうか。私の苦しみに気づかない圧倒的多数の人間には、今までの失敗体験をVRで見てほしい。被害妄想と悪夢と現実が入れ混じった暗くて歪んだ世界を味わってほしい。私が経験した時間と同じだけ、何百回、何千回とみれば、真面目に頑張ることが馬鹿らしくなって、やる気がなくなると思う。普通に。

悪いのは、私じゃない。全部、社会のせいだ。

 

 

なんて、開き直れたらいいのに。