MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

トランスジェンダー受け入れは「配慮」ではなく女子大が女子大であり続けるための挑戦

お茶の水女子大が、戸籍上は男性であってもトランスジェンダーの学生を受け入れることを決定したというニュースが、非常に話題を呼んでいる。

www3.nhk.or.jp

 

しかし、アメリカの名門女子大では、数年前から受け入れを表明していたし、日本女子大学でも、昨年の2月に「『多様な女子』と女子大学 -トランスジェンダーについて考える-」というシンポジウムが開かれており、話題のトピックではあったので、水面下ではじっくり検討がなされていたということだろう。

 

このニュースを巡っては、肯定的な意見のほかにも、トランスジェンダーに“配慮”することで女子大の存在意義が脅かされるという意見や、逆に、女子大の存在意義はすでに失われているのだから、そもそも共学化が望ましいといった意見などが挙がっており、良くも悪くも注目を集めているようだ。

 

どの主張も理解できなくはない。ただ、今回の決定を「LGBTへの配慮」という問題に集約するのは、あまりにも単純化しすぎている。むしろ、女子大が女子大であり続けるために「女子大の存在意義」を守りぬく決断であるといっても過言ではないだろう。

 

男子のみが高等教育を受けられる時代は終わった。

女子大以外に女子にとって学ぶ場所がない時代も終わった。

場所を提供するという意味では、女子大はその存在意義を完全に失っている。

 

しかし、その“男女平等”な場所は、本当に安全に学べる場所なのだろうか。大学は、性別を理由にした、ハラスメント、嫌がらせ、差別的な扱い、差別発言、疎外から無縁な場所になったといえるのだろうか。答えは、明確に否であろう。性別を理由に、学問を阻害されるような環境が、2018年の日本において、確実に存在している。

 

ここに、私は女子大の存在意義とその使命を見出している。であるならば、なぜトランスジェンダー学生を受け入れることが、存在意義を高めることになるのか。アメリカの名門女子大学の例を引きながら、議論していこうと思う。

 

(以下、戸籍上男性のトランスジェンダーの学生を、「トランスジェンダーの学生」と便宜上表記する。また、以下の内容は、先述の日本女子大学のシンポジウムにおける髙橋裕子氏の「「米国の女子大学におけるトランスジェンダー学生の受け入れをめぐって-セブンシスターズを中心に-」」の発表で知った事実を参考にしている。問題があれば、削除します。)

 

冒頭でもふれたとおり、セブン・シスターズと呼ばれるアメリカの名門女子大学群の大学は、すでにトランスジェンダーの学生の受け入れを2016年までに表明している。

 

www.nikkei.com

 

その中の一つ、マウントホリヨーク大学のHPに掲載されているアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)を参照しながら、この決定の背景にあるものを探ってみたいと思う。 

参照URL:

https://www.mtholyoke.edu/policies/admission-transgender-students

 

Admission of Transgender Studentsには、10のよくある質問が並べられている。その最上段にあるのは、「マウントホリヨーク大学はそれでも女子大学であるのか?」という問いである。

 

その答えは、

Yes, Mount Holyoke remains committed to its historic mission as a women’s college.

 

として、女子大学としての歴史的使命にコミットし続けることが太字で強調されている。ここで考えたいのは、共学化に向けたプロセスとして、トランスジェンダーの学生を受け入れるわけではないということだ。と同時に、生物学的な女性もトランスジェンダーの女性も、女性の共同体の中で、勉学に励み、成長するという女子大学の価値を共有できると述べられている。

 

また、「本学の実践とポリシーは、個人の自由、社会正義、多様性と包摂を中心とした我々の核となる価値観と合致すべき」と付記されているのは、トランスジェンダーの学生の受け入れは、マウントホリヨーク大学の中核となる価値観と一致するところであり、なんの変節でもないことを内外に示しているのではないだろうか。

 

では、誰が「女性」とみなされるのかという論点が当然浮かび上がっている。今回の報道に対する反応をみていても、かなり扇動的な憶測も少なくない。これに対し、よくある質問の2では、入学申請をできる学生の属性として、以下のように記載されている。

 

Biologically born female; identifies as a woman

Biologically born female; identifies as a man

Biologically born female; identifies as other/they/ze

Biologically born female; does not identify as either woman or man

Biologically born male; identifies as woman

Biologically born male; identifies as other/they/ze and when “other/they” identity includes woman

Biologically born with both male and female anatomy (Intersex); identifies as a woman

 

いろいろ並べられているが、セミコロンでつながれた2つの要素の組み合わせから成り立っている。つまり、Biologically born(=生まれたときの生物学的な性別)とidentifies as(どんな存在であると認識するか)である。これをみると、生物学的な性別が女性であれば、自分自身を男性、中性(や両性など)、女性でも男性でもないと認識していても受け入れるとある。

 

この基準は、心が女性の人たちは、みな女子大への受け入れを認めるべきだという理屈では成り立たない。特に、男性であると自認する学生を受け入れることは、在学生にとってトラブルを引き起こすものと訝しく思われる方もいるかもしれない。

 

しかし、この基準には何ら新しいことはない。なぜなら、女子大学は入学者の性自認をいちいち確認しておらず、女性であると自認しない学生は、今までも入学し、在学し、そして卒業しているからだ。入学要件に性自認が女性であることを要求し、在学中にその認識に変化がないか確認した話は聞いたことがないし、トランスジェンダーの人口に占める割合を考えると、これまでに一人も存在しなかったと考えるほうが不自然ではないだろうか。男子校や女子校出身で、のちにトランスジェンダーであることを公言した著名人もいるので、決してマウントホリヨーク大学の基準は新奇なものではないし、女子大学が女子大学ではなくなると警鐘を鳴らすのであれば、この点も必ず考慮されるべきではないだろうか。

 

男性、もしくはインターセックスに生まれた場合の入学基準においては、女性としての自己認識を持つものを受け入れるとしている。

 

明確に受け入れることができないと書かれているのは、

Biologically born male; identifies as man

のみである。しかし、ここに、マウントホリヨーク大学が女子大学としてのアイデンティティーを保ち続ける意思が表れているといえるだろう。

 

ほかの設問では、性別の自己認識の基準は申告のみであり来歴は問わないこと、入学後に性自認が変化しても退学の必要はないことなどが書かれている。基準や規定は、セブンシスターズの中でも、大学によって異なるが、トランスジェンダーの学生の受け入れを表明した先行事例のひとつとして、マウントホリヨーク大学のアドミッションポリシーを取り上げた。

 

こうして、これまでの「女子」の概念を拡大して受け入れを表明した各大学であったが、そこまでして女子大であり続けることにこだわる意味はどこにあるのだろうか。

 

ここで、冒頭の問題提起に戻ってくる。

 

髙橋裕子氏の『トランスジェンダーの学生をめぐる入学許可論争とアドミッションポリシー』(https://ci.nii.ac.jp/naid/130006199709)という論文の中で、女子大学にしか志願しなかったトランスメン(トランス男性)の学生の言葉がある。彼が女子大を選んだのは「安全な場所(safe place)」だったからという理由が述べられている。「安全な場所」という言葉を念頭に置きながら、女子大の存在意義を改めて考えてみたい。

 

そもそも女子大は、女性が教育を受けることを期待されず、男性にしか大学の門戸が開かれていなかった時代に誕生した。ジェンダーという言葉がないときから、すでに性別規範を打ち破ろうとした画期的な挑戦だった。実際、社会で活躍する女性のリーダーを輩出し続け、そうした人々の貢献もあり、男女平等の重要性が認識され、現在に至る。

 

女性に教育を受けさせる必要はないという考え方は、もはや過去の遺物となりつつある。少なくとも日本においては、大学進学率の男女差はほとんどなくなり、男性しか入学できない大学も存在しない。こう考えると、女子大は「歴史的使命」を終えるときがやってきたのかもしれない。

 

憲法で両性の平等が謳われているにも関わらず、入学者を女子だけに限定することは、性差別との指摘を免れえない。女子大がなぜ必要なのか、存在意義が問われている中で、「女子」の概念を拡大するならば、より一層、存在意義を失っているようにさえ思える。

 

しかし、このギャップにこそ、女子大の存在意義がある。

 

いまの大学が、すべての人にとって「安全な場所」であるとはいえないだろう。誰もが性別のことを気にせず、大学生活を過ごすという理想には程遠い。大学関係者によるセクハラは後を絶たないし、表面化していないものも含めれば、日常的に繰り返されていても不思議ではない。

 

また、ジェンダーについて学ぶ環境という点でも不十分だろう。学ぶということは、単に知識を深めるだけではなく、自分自身の置かれた境遇に気づく力、それを言葉にする力、主張し変えていく力など、不平等な立場にある人が本来のあるべき姿を取り戻すための力を得ることでもある。それは、ジェンダーに関する講義や図書が充実しているだけでは、成し遂げられない。教授や職員、学生も含めて、大学全体が学びを支える環境が必要不可欠である。もし、疑問に思うことがあったとしても、差別的な人がたくさんいるような場所ならば、発言しづらいし、その考えを持ち続けることも難しくなる。とりわけ、ジェンダーの問題においては、無意識のうちの刷り込みが社会やその人の生き方の規範を作り上げてしまう。たとえ、正当な申し立てであったとしても、無自覚な多数派によって淘汰される可能性は十分ある。

 

大学は、多くの学生にとって、子どもから大人への自己形成のステージでもある。その段階に、ジェンダーを理由に攻撃や排除を受けることが、どれだけその人の人生に影響を与えるのかは深刻に受け止められるべきであり、大学という場が、社会の差別的な規範の再生産や強化のために利用されることは、全くふさわしくないと、現役の一学生の立場から主張したい。

 

女子大は理想郷ではないから、以上のような問題点を全て克服しているとは到底思わないが、それでも21世紀の日本において、女子大の存在意義を見出すのであれば、【ジェンダーが理由で弱者になりやすい人々(=あらゆる意味での「女子」)のみであるからこそ、外部の圧力から解放された環境で、安全に過ごすことが出来る】点に尽きるのではないだろうか。かつて女子大が必要とされたように、今も女子大を「安全な場所」として必要に感じる人々は多くいるはずだ。

 

トランスジェンダーの学生受け入れは、そうした女子大の歴史的使命の延長線上にあるものであり、女子大の価値を脅かすものだとは思わないし、単なる“配慮”で終わらせるべき話でもない。お茶の水女子大学の決定は、女子大が女子大であり続けるための挑戦として、エールを送りたい。

 

と、報道とツイッターでの反応をみて、思ったことがあったのでつらつら書いてみた。

 

最後に追記。この記事の中では、男性優位な社会構造が存在することを前提として語ってきた。もちろん、そのこと自体を否定するわけではないが、すべての男性が社会的、経済的に恵まれた地位にあるわけではないことを付記しておきたい。男子学生だけでも、性的マイノリティーを含めジェンダーのことで苦労を味わっている人は決して少なくないし、そういった学生が、安全に大学生活を送れる環境を確保することの重要性は、軽んじられてはならない。男女共学の大学でも、ジェンダーによって不利益を被る人がいないようにしていくことが急務であり、この点についても認識が広がるべきだと願っていることだけは改めて強調しておきたい。

 

今日の記事はとても長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。