MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

Facebook憂鬱症候群

 SNSが一筋でも光をもたらしてくれるとしたら、必ず日陰も生まれる。

 昨晩にみかけたFacebookの投稿が、どこか心に引かかっている。私は、Facebookのアカウントこそ持っているものの、普段はほとんど見ないようにしている。面識のある人が、何かを成し遂げたことを報告したり、いかにも幸せそうな表情で写っている写真を見ると、自分と比較してしまって、みじめに思えるから。Facebookをやっていなかったところで、困ることが起こるわけじゃないから、今まで通り、見なければよかっただけの話だ。だけど、昨日は自分がタグ付けされたという通知が来たから、見に行ってしまった。タグ付けということは、誰かの投稿の中で、自分が言及されたということを意味する。Facebookでわざわざ悪口を書く人はいないだろうから、いい意味で言及されているに違いない。実際、仲良くしている人の投稿だったから、どんな風に書かれているかが気になって、投稿を覗いてみた。これまでの生活の振り返りが長文にまとめられていて、お世話になった人の一人として、私の名前が挙げられていた。自分の存在が、その人の人生に意味をもたらしたのなら、それは確かにうれしい。

 

 でも、それだけだった。とても長い文章の中の1行。それが私とその人の関わり。その人が、いろんなところで私に好意的なことを書いてくれているのは知っていたから、無意識に都合よく期待してしまっていた。何も自分のことだけを、褒めたたえてほしいわけじゃない。その人の生活の中で、ごくごく一部の存在に過ぎないということを、リアルに突き付けられたことが、納得できない気持ちにつながっていた。以前から忙しそうにしていたし、様々なところで活躍していることは知っていたから、私だけに構うほど暇じゃないことは分かっていた。けれども、私が同じように、振り返りの文章を書いて、その人を取り上げるなら、1行どころではなく数行、1段落になると思う。決してないがしろにされているわけではないとしても、たくさん並べられている名前の一つに過ぎないことは、今まで見て見ぬふりをしていた現実にとどめを刺されたようで、悲しくなった。

 

 これだけ書くと、ストーカーのような一方通行の歪んだ愛のように思えるかもしれない。だけど、それ以外にも辛さを感じた。それは、私には語るべき過去がないということだ。たくさん入っていたサークルは、ほとんどやめてしまったし、残った1つのサークルでも無責任に逃げ出そうとしたこともある。アルバイトは少しやっていたけれど、お金が欲しいだけで、後は怒られないかどうかをずっと気にしていただけだった。大学の勉強は、これまで頑張ってきたとは思うけれど、英語も第二外国語もほとんど話せない。他人からみれば、ちょっと教養のある大学生、ただそれだけだ。レポートや発表には自信があるが、目にみえる結果は残っていない。せいぜい、大学の先生や同じグループになった学生に褒められるぐらいだ。それは、一種の特技といえるかもしれないけど、堂々と投稿するほどのことでもない気がする。

 

 大学生活がいかに憂鬱か、ジェンダーセクシャリティーに対する見解、これらを語ることは得意だ。何も出来ないよりは、意味があるし、誰かを勇気づけることも出来ると思う。だけど、こういう組織でこんな結果を収めた、こんな人と関わってどういうことを学んだ、といった語るべき履歴をほとんど持っていない。Facebookでかっこいいことが書けなくても、それは別にいい。けれど、同じところにいると思っていた友達が、堂々と誇れるような投稿をしているのをみて、平然としていられるほど、私は強くない。

 

 大学に入ってから、何をしていたのだろう。みんなが遠くに行ってしまう感覚がする。私は、「悩みが相談できる友達がほしい」とか「一番になって褒められたい」とか子どものようなことをずっと何年も願っている。同じところで足踏みをしている間に、他の人がどんどん先に進んでいく。

 

 いや、そもそも同じところにはいなかったのかもしれない。本当はたいしたことがない人間なのに、勉強と言葉の力で勘違いして、何かを成し遂げた気持ちになって、同じ段階にいると錯覚していたのかもしれない。私は、体力もないし、メンタルも弱いし、何かを頑張り続けることさえ諦めてしまうのに、自分の能力を過信しすぎていた。本当にそうだとしたら、ただの痛い妄想家になってしまう。

 

 大学に入ってから、すぐに感じた疎外感は、間違っていなかった。自分が入れないところで、別の世界が広がっている雰囲気に気づけないほどには、鈍感ではない。今まで頑張ってきたことは、無駄じゃない。希望を信じて行動していたからこそ、今の大学に入ることが出来たし、なんとかやっていけている。努力を続ければ、次の世界がみえてくるとは思う。けれど、手が届くかは分からない。望むのなら、同じステージに立ちたい。置いていかれたくない。このままいけば、距離を離されていき、時々Facebookで差をみせつけられ続ける未来が見える。所得でも階級でも突き放されていけば、再会を果たしたときに、その格差をみじめにも味わうしかないのだろう。その時に、大学生活のことが話題にのぼって、同じ世界にいたことを振り返るとしたら、きっと帰り道は涙を流すことになるにちがいない。好意でご飯をおごってくれることもあるかもしれないが、「ありがとう」と返すことは、少なくとも今の私には出来ない。それも虚栄心なのだろうか。

 

 心のどこかでは、もっと希望に満ちた未来がやってくると信じている。たぶん、全てが悪い方に行くことはないだろう。だけど、それは根拠のない期待で、幾度となく打ち砕かれてきたものと一緒だ。大学生活のいろんな局面で感じた「出遅れている」感覚が、点と点を結ぶように線となりつつある今、ただ信じ続けることは出来ない。

 

 だとすれば、やっぱり努力なのだろうか。今日を生きていくだけで精一杯の私は、未来のことなんて考えられない。もし生きていたとしても困らないように、行動しているだけ。未来を変えるために努力をするか、別々の道を歩むことを受け入れるか。私に求められているのは、その両方だと思う。