MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

 性別に関する言葉を使わない理由 男女で差別しあう社会を避けるために

 このブログで心がけていることがある。その一つには、男児とか女子大学生とか性別を修飾する言葉や彼女といった性別を特定する人称代名詞の使用を避けることだ。使うときは、それ以外の表現を考えたうえで、適切な言葉が見つからないときに限っている。それは、有益に働く場合もあれば、物事の本質を見過ごすしてしまう危険性もある。ここで、私の考えを整理しておきたい。

 

・そもそも不要な情報ではないのか?

 性別を伝える必要があるのかと言いたくなる報道をよくみかける。「交通事故で男性2名が負傷」というアナウンサーの言葉に、男性という情報が必要不可欠なのかと思ってしまう。医療や商業的なマーケティングに関わる範囲では、性別や男女別の統計が重要であることは、理解できなくもないが、全ての局面において、男性か女性かということにこだわる必然性は感じない。だから、必要性を感じない場合に書かないようにしている。

 

・性別は男女で割り切れるほど単純ではなく、マイノリティーへの配慮を欠くから

 一言に性別といっても、生物学的な性別、戸籍上の性別、社会生活を送っている性別といろいろある。さらには、インターセックスやXジェンダーなど二分法的な性別観では、必ずしも規定できないような人々もいる。こうしたことを考えると、相手の性別を決めつけてしまうことへの躊躇いがある。英語圏ではHeやShe以外の人称代名詞を使ったり、呼ばれたいGender Pronoumsを記入したりといった動きもあり、一つひとつの言葉が当事者におよぼす影響を考える繊細な感性を持たなければならないと思う。

 

 であれば、相手がマイノリティーである場合にのみ、そういった対処をすればいいという考え方もできるが、私はそう思わない。性別による区別に基づく言葉を使い続けることは、二分法的な性別観を支え、再強化することに繋がるからだ。少数者にだけ特別な対応をして、既存の秩序に組み込むだけではなく、社会全体の構造が様々な人を包摂するように変わっていくことの重要性を強調しておきたい。

 

・性別による断絶を生まないようにするため

 セクハラやDV、性犯罪の被害者は圧倒的に女性が多い。女性差別はまだまだ根強いし、不利益を被っている人も少なくない。拒食症も女性が圧倒的に多く、社会的な圧力の不均衡が存在することは間違いない。具体的な例を挙げ始めれば、きりがない。

 

 ただ、男性がみな特権階級の恩恵に預かっているわけでもない。よく言われることではあるが、ホームレスや自殺者数は、男性が多い。背景には、経済的にも社会的にも男性に求められる男らしさが存在しているのだろう。DVやセクハラの被害者となる男性も少なくないにも関わらず、理解や対応が行き届いているとはいえない。

 

 両方を比較したときに、量的もしくは質的にどちらがより対処すべきかという話をするよりも、どちらも重要な問題として取り組まれなければならない。ニュースやメディアで取り上げられにくいことこそ、目を向けなければならない。そういった意味で、ジェンダーの文脈においては、男女という言葉をあまり使わずに、等しく生きづらさの問題として書くことにしている。そして、これこそが最大のデメリットに繋がる。

 

・男女の非対称性

 男女どちらにも生きづらさや差別があるので、両方取り組まなければいけないという議論は、非対称性を見逃すことになる。セクハラもDVも女性の被害者が圧倒的に多く、管理職に占める女性の割合は2割以下、所得格差、性犯罪と、女性に対する差別は非常に根強い。生物学的な性差もある。このことを意識しなければ、多くの人をとりこぼすことになる。女性差別撤廃を訴える人の多くは、この認識に立っているのだろうし、一理ある論理だ。時間も資金も人員も有限なのだから、優先順位の高いもの、困っている人が多いものから解決されべきなのは、当然ともいえる。

 

 それでも、私は、あまり非対称性に触れずに、平等という原則に基づいているか否かのみを基準としたい。なぜなら、男性と女性で喧嘩をしたり、ゼロサムゲームの権益を奪い合っているわけではないからだ。もちろん、女性にとって生きやすい社会が、男性にとっても恩恵をもたらすかは、簡単に言い切ることはできないが、男女の対立を深め、双方が攻撃しあうことほど不幸なことはないと思う。けれども、現実、特にインターネット上では攻撃合戦が繰り広げられているのを見ることが多く、残念に思う。

 

 ここで思い出したのが、アメリカの公民権運動の指導者のひとりだったマルコムXだ。マルコムXは、黒人が白人よりも優れている、黒人は白人から分離した社会を作るべきだと主張し、差別に抵抗するための暴力もやむを得ないとする立場をとっていた。それも、一つの意見ではあるけれど、本当にそれが平等といえるのか、新たな犠牲者を生んでいないか考える必要がある。

 

 現在の社会をみると、ジェンダーに関わらず、自分の優位性や正当性を主張し、相手を侮蔑するような言葉が飛び交い、声をあげた人が抑圧さえされる環境だと感じている。そういう言動をとっているのは全員ではなく一部の人だけだと思いたいが、罵倒しあうやり方には一切賛同できない。

 

 どちらでもあって、どちらでもない私から見ると、今の状況には、とても心苦しい。誰にとっても正しい表現というのは存在しない。誰も傷つけないことは出来ないと思う。が、それでも、慎重にバランスをとりながら平均台の上を進んでいきたい。最善策を模索し続ける態度こそが大切なのだろう。