MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

見た目ってそんなに大事ですか アンチルッキズム

  人は見た目が9割というし、一目みれば性別・年齢層はもちろん、性格や生活態度、所得もある程度、推測することが出来る。人間が人間である限り、見た目から何の感情も情報も得ないようにすることは不可能だ。けれども、365日24時間、公的・私的を問わず、私たちを縛り付けるに足るぐらい見た目は大事なのだろうか。

 

 俳優やモデルといった見た目が大事な職業はまだしも、一般人がお互いの見た目をチェックし、品評し、盛んにおしゃべりすることは。問題を生み出していないといえるのか。個人が見た目についてあれこれ思う分には勝手だとしても、それを口に出すことが許容されやすい社会には、違和感を覚える。

 

 その人がアピールしたわけでもないのに、他人が容姿について語り合うことは、もはや日常の風景となっている。「イケメン」とか「かわいい」とか褒めるだけではなく、「ブス」といった貶す言葉が、簡単に使われる。容姿によって引きおこされた感情が本当に心から感じていることだとしても、そのことを発言してよいかどうかは考える余地があるのではないか。

 

 「外見に基づく差別や偏見」のことをルッキズムというが、ルッキズムは他の差別に比べて許容されやすく、あまり意識されていないように思われる。これが、人種差別の文脈ならもっと繊細に扱われるはずだ。人種が違うからといって、それについてどう思うかを煽情的に品評するのは、憚られることだろう。

 

 また、個人の身体へのコントロールという点でもルッキズムは批判できる。望ましい顔、望ましい体型、望ましいファッションが形成され、理想の容姿が規範として、人々の中で形成される。これが個人的な感情の領域を超えたとき、他人に対する身体へのコントロールに転じていく。何らかの組織に所属し、その組織のルールに同意している場合を除いて、根本的には、どんな容姿でもどんな格好でもその人の自由であるはずなのに、規範から外れたものとして批判され、時には差別を通じて、間接的な介入が試みられる。この規範というのは、決して本質的なものではないし、個人の好みや偏見によって形作られるものであり、これに従うべき論理はどこにもない。極端な例をいえば、健康上は何の問題もないのにダイエットに走る中高生は、まさにその犠牲者である。彼女たち(彼ら)が自分で選択したことであっても、その意思決定の背後には、他者から評価されるためには、規範に従わなければならないという圧力が潜んでいる。

 

 さらに言えば、ルッキズムは性差別とも結びついている。たとえ当人が恋愛的感情を持っていなかったとしても、異性としての魅力があるかどうかを、外見によって批評されることはありうるし、実際行われているだろう。公的な場で堂々と行えばセクハラとして摘発されることはあっても、本人がいない場所であれこれ言うのをやめさせるのは難しい。これは完全に主観になるが、そういう状態はとても気持ちが悪いと思う。自分が身体的魅力をアピールしているわけでもなく、相手とはビジネス、少なくとも恋愛などを求めていない場で、話がしたいだけなのに、裏では自分の外見について、魅力があるかどうか、性的に惹かれるか、どんな生活を送っていそうかとゴシップのように噂されて、その話題が共有されるということを喜ぶ人はいないだろう。恋愛的または性的な欲望の対象としてみれるか否かは、「異性としてみれる」という言葉で端的に表現され、まさにルッキズムと性差別が密接に関わっていることを示している。

 

 ルッキズムは様々な問題をはらんでいるが、今すぐすべての差別や偏見を撤廃することは不可能だろう。内心の自由は必ず守られるべきであり、表現の自由も原則として認められなければならない。私も他人の考えを無理やり変えられるとは思っていない。けれども、問題提起をすることで、生きやすい社会に向けて、小さな一歩を踏み出せればと願っている。少なくとも私は、ルッキズムの被害者にも加害者にもなりたくない。「見た目ってそんなに大事ですか」―常に自問自答を繰り返しながら、いつか毅然とした態度で答えられるようになりたい。