MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

勉強が好き 自分を解放するための手段として

 大学に入ってから、勉強が好きになった。こう書くと、いかにも東大生らしいが、大学受験の時から好きだったわけではなかった。その時は、あくまで大学に受かるための手段であり、周りの人を見返したいためだけに勉強していた。

 

 大学に入学した当初は、勉強の楽しさが分からなかった。受験と違って、その科目を学ぶことが将来の役に立つわけでもない。むしろ、社会で役に立たなさそうなことばかり教えている。教養があったとしても、ご飯は食べられない。満足な豚より不満足なソクラテスでありたいというスピーチがあるが、変に知識をつけて不幸せになるぐらいなら馬鹿でもいいから幸福な方が絶対にいいのにと思っていた。

 

 一方で、高校までの学びでは得られなかった経験もあった。一言でいえば、物の見方が変わった。特に関心を持ったのが、ジェンダーセクシャリティーについてだ。高校では、男女平等に関する法律の名前と多少の保健体育の知識しか習わなかった。人間は誰でも人を好きになり、それも異性と交際し、生涯たった一人のパートナーと添い遂げて、子どもを作るのが普通だと思っていた。そこから逸脱することは社会的に許されないだろうとも感じていた。でも考えてもみれば、こうした観念は人間が作り出したものに過ぎない。それがいいことか悪いことかは置いておくにしても、既にある通念を相対化する視点が大学で培われた。

 

 この国では思想・良心の自由が保障されている。本来なら何を考えても、許されるはずだ。にもかかわらず、教師に反抗してはいけない、同性を好きになるのはおかしい、友だちが多いほど優れている、親を恨んではいけない、家族は大切にしなければならないといった無数の規範が存在し、私の心を縛り付けていた。本心と規範との葛藤は、私の生きづらさの源泉だった。好きなように考えることが出来なければ、好きなように生きられるわけがない。規範に従うよう教えられるのではなく、誰によって、どんな目的で、規範が作られているのかを知ることで、人間によって構築されたものに過ぎないと見抜けるようになった。

 

 先生の言うことが間違っていると思ったら、自分で調べることも出来る。図書も論文も充実しており、その気になれば議論を挑むことさえ可能だ。入念な準備をした上で、反論してもあっさり看破されてしまうこともある。その時は悔しいけれど、もっと勉強したいという気持ちがかきたてられる。いい先生ばかりではないが、高校生の時よりも対等で自分のことを尊重してくれている感じがする。

 

 大学は勉強好きの優等生タイプのための施設だと思っていた。が、猜疑心が強くて、人間不信でも受け入れてくれる寛大さがある。何事も当たり前とせずに、疑うことこそが求められている姿勢であり、これは私の得意分野だ。教授が話したことや本の内容をうのみにせず、自分で考えていくことは、心から楽しいし、学ぶたびに思考の範囲が広がり、霧が晴れるように、自由な気持ちになれる。

 

 もっとも、今は公立図書館も充実しているし、自分で学びを深めることも出来る。卒業しても、時間をみつけて、たくさんの本を読んで、考えを深めていきたい。企業に就職すれば、また新たな規範が課せられて、時には自分の意思を曲げなければならない時もあると思う。それでも、心の自由だけは手放さないように、勉強することをやめないでいたい。