MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

内面を言葉で表現できる強者

 病気の体験談や当事者のブログは、多くの人に共感をもたらしてくれるし、書いている本人にとっても言語化できるというメリットがある。言葉によって、つながりが生まれ、抱えている問題が解決されることもある。

 

 しかし、いつも感じるのは、言葉でうまく表すことが苦手な人もいるということだ。困っていることを説明するにも、誰かに何かを頼むことも、言葉を使う必要がある。言ってくれないとわからないと切り捨てることは簡単だけれど、本当にそれでいいのだろうか。感情や経験を言葉にすることは、誰にも出来ることではない。こういうことを考えると、私は強者の立場にいる。そのことを忘れてはいけないと思う。

 

 以前、塾でアルバイトをしていたとき、何も話してくれない生徒がいて困っていた。何をいっても、答えてくれないし、課題にも取り組んでくれなかった。最初は丁寧に話しかけていたけれど、話さないなら何をしても無駄だと感じ、形式的に声をかけるだけになってしまった。そのとき、感じていたのは、嫌なことがあるなら言葉にするべきだという信念だった。しかし、これは考えてみれば暴力的な命令である。言語化できないこともあるし、環境によっては声を上げにくいこともある。彼が何を考えていたのかは分からないけれど、言葉では表せない葛藤を抱えていたのかもしれない。

 

 言葉を使える強者の声だけが目立つことで、言葉にできない苦しみを抱えている人が周縁化されることはあってはならない。そのために、口を閉ざす必要はないと思うが、自分の立場に自覚的でありたい。

 

 言葉は暴力になりうる。そして、言葉を使うように求めるのも暴力になりうる。何も話さない人が悩みを抱えていないわけではないし、努力を怠っているわけでもない。言語化されない気持ちは、問題行動や自傷行為の形で表現されるのかもしれない。そうした行為を注意することもときに必要だろうが、言葉にならない叫びを無視してはならないと思う。

 

 言葉で語れる人が、誰かの代弁者のように振舞うようになれば、語れない人の意思は無視されることになる。だからこそ、強者であることに自覚的でありたい。