MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

空気を読まない人に配慮したいがイライラしてしまう

 KYという語はもはや死語だが、空気を読むことは生きていく上で大事だ。やはり、空気を読まないと、白い目で見られやすい。私は空気を読めないことが多く、出来れば空気を読まなくてもいい社会になればいいと思っている。にもかかわらず、空気を読めない人にイライラしてしまう。

 

 この場合の空気を読めないというのは、文脈や立場を無視していると感じることだ。例えば、無関係に自分の話を始めたり、ずっと話し続けたりすることなどがそれにあたる。コミュニケーションというのは、相手がいないと成り立たないのに、自分だけが一方的に楽しい思いをしようとするのは自己中心的だと思う。限られた時間をどのように割り当てて、みんなが話せる機会を作るかということをいつも意識しているので、余計にそう思うのかもしれない。もちろん、これは私がコミュニケーションの定義を勝手に決めているだけなので、これに従う必要は全くない。けれども、最低限の気配りは求められるだろう。

 

 かといって、そうした人たちを疎外したくないという気持ちもある。自分自身が空気を読めていない時もあるし、なにより本人の努力ではどうしようもない場合があるからだ。空気が読めないという理由で排除することが許されるなら、その人は孤立するしかない。誰も指摘する人がいないまま、爪はじきにされれば、辛さはより増えるだろう。発達障害という病名が付いていても、付いていなくても、特性を矯正するよう迫ることは、望ましいこととは思えない。

 

 それでも、そのことを分かっていても、どうしてもイライラしてしまう。他人の話をさえぎって、一方的に話し続けている様子を周りの人が苦笑しているにも関わらず、どうして気づけないのだろうと思ってしまう。その時の視線は、完全に軽蔑を含んだものになっている。そもそも、空気を読めない人に配慮をしようという発想自体が上から目線な感じもする。だから、あまり関わらないようにするのが現地点では最善の選択肢かなと思っている。私が神経質なだけで、きっとそういう人とのコミュニケーションを楽しめる人もいるはずだ。なら、私が無理に関わる必要も矯正する必要もない。私には私の人生があり、あの人にはあの人の人生がある。それって無責任なのだろうか。