MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

悔しい感情をバネにする

 喜怒哀楽に悔を加えて五字熟語にしたい。それぐらい、毎日の生活の中で悔しさを感じる。幼少期のころに泣かされた経験も覚えているし、小中高大と年代別に悔しかったことを並べられる。見下されても、馬鹿にされても、言い返せない自分、やり返せない自分に何より腹が立つ。見返したいという思いは、大学入試でひとまず結実したが、入学後も悔しい出来事は続いている。

 

 「その英語力でどうやって合格できたの?」とあおられても、成績を自慢されても、学力が低いのは事実だから反論できない。サークルやアルバイトで自分の無能さ故に怒られる。もし、自分がもっと賢く、もっと立派で、もっと威厳があれば、こんな屈辱的な思いはせずにすんだはずだ。そのことを自覚しているくせに、自己研鑽に励もうと努力もせず、涙を流しているだけの自分の馬鹿さ加減に物も言えない。見た目、性格、経済力、何もかもを比較しては、無い物ねだりで、他人を妬んでいる。私が落ち込んでいる間に、彼ら彼女らは、勉強し、働き、さらに上に行く。私の地位も、他人から見れば、羨ましいものかもしれない。けれど、私にとっては、悔しい毎日の連続だ。

 

 悔しさが強いあまり、他人を素直に尊敬することが出来ない。司法試験に合格した人、起業した人、学生団体で活躍している人、確かにすごいとは思う。それでも、尊敬すると言ってしまえば、自分が決して及ばない存在であることがはっきりする気がして怖い。人間は対等で相互に尊敬するべきという理念は持っているが、見習いたいとは口が裂けても言いたくない。こんなことを書くと、被害妄想が激しく、競争原理に支配されていると思われることだろう。それでも、私は誰にも何事においても負けたくないという思いを捨てきれないのだ。

 

 しかし、人一倍の悔しさは悪影響ばかりをもたらすものではない。悔しさをバネに、何事にも本気で挑戦することにしているし、その分飛翔できたこともたくさんある。挫けそうになったとき、臥薪嘗胆といわんばかりに悔しさを噛みしめることで、諦めずに続けられる。執念深い性格は、粘り強さに生かされていると思う。

 

 また、比較することから離れて、自分なりの幸福を見出す動機にも繋がっている。誰かと比較する限り、1番にならないと劣等感がつきまとう。たとえ1番になったとしても、ほかの分野では後塵を拝することになる。1番になれない悔しさが強い故に、自分なりの基準を持つことの重要性を知ることが出来る。レースで1番になれないのであれば、そのレース自体から離れてしまうというのも、一手であるはずだ。むしろ終わりなく続くレースの順位に一喜一憂するよりも、賢い選択かもしれない。

 

 悔しいという感情は、負の感情だといわれる。けれども、悔しいと思うからこそ、頑張れる。悔しいと思うからこそ、別の選択肢を見つけられる。負=悪いとはいえない。だからこそ、確かに感じた感情を否定することなく、自分の中で育てていきたい。