MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

テレビも新聞もない生活

 世界は常に変わっていくのに、代わり映えもしない生活を送っている。国会の議論も芸能人の不倫も殺人事件があっても、私の生活を直接変えるものではない。誰かが教えてくれなければ、無数の出来事を知らないうちに通り過ぎていく。テレビや新聞を見ないと、なおさらそうだ。インターネットを通じて、だいたい世間で何が起きているかは知れるが、情報量は圧倒的に少なくなる。


 テレビを見ることを否定するつもりはないし、あえて見ないというのはやせ我慢にも聞こえる。実際、私もドラマやアニメをよく見ていた。ただ、ニュースやワイドショーについては、たくさんの情報を受け取ることが、本当に役に立つのかという思いもある。朝から晩まで流される情報は、時間が経てば忘れてしまうし、なによりネガティブな気持ちにさせられるものを遠ざけたいと感じていた。政治や経済の問題は確かに重要で、誰かが真剣に考えてくれているからこそ社会が回っていることは自覚している。けれども、私一人が政治に憤慨し、社会を憂いたところで、大勢は変わらないし、不快な感情を引き起こすだけではないのかとも思ってしまう。例えば、イラク戦争は大いに議論を呼んだが、段々と記憶は風化しつつあり、当時と同じ熱量を持っている人はほとんどいないだろう。イラク戦争について感じたことが、行動に転化され、何か影響を与えられた人はいるのだろうか。結局、多くの人にとっては、一時の話題として消費していることを繰り返しているのではないかと思う。


 事故や事件の報道は、自分から知ろうとしなくても、自然に入ってくる。どこで死体が発見され、その性別や年齢はどうで、犯人は誰だという情報が、テレビや新聞を通じて、何回も繰り返し報道される。その中には、附属池田小事件や相模原障害者施設殺傷事件のように、人々の記憶に強く残り、社会全体に問題意識が共有された事件もある。だが、大半の事件は、しばらく経てば忘れられていく。ここでも、話題として消費されている感じがぬぐえない。


 事件を知り、亡くなった方を追悼し、社会を見つめなおすことは、決していい加減にしてよいものではない。ただ、日本全国で起こった痛ましい事件の全てを記憶にとどめることは、負担が重く、それこそ精神が参ってしまうだろう。私は正直にいうと、事故や事件で人が亡くなったということを耳にする度、気持ちが重くなる。飲酒運転によるひき逃げも親子間の殺人事件も、楽しくなれる話題ではない。なぜそんなことをするのかという怒りの気持ちもあるが、正義感があるわけでもないので、そんなニュースは聞きたくないという気持ちの方が強い。それでも、こちらの気持ちに関係なく、テレビや新聞をみれば、一方的に情報が入ってくる。知りたくないことは知らないままでいることは、罪なのだろうか。


 今はお金がないので、テレビも新聞もない生活を送っている。新聞を読みたくなったら、図書館に行く手もあるし、気になる話題はネットで追いかけている。興味が偏り、最低限の時事理解が出来ないという欠点もあるし、関心があるものだけを知れるという利点もある。大勢の人がテレビも新聞もみなくなったら、社会は成り立たないので、テレビ・新聞なし生活のよさを伝えようという気はない。けれども、不快な感情を引き起こすものを無自覚のうちに摂取していたことに気づけたのも事実だ。そして、多少ニュースを知らないところで大した実害があるわけでもなかった。だから、嫌な感じがするなと思ったら、遠ざけることにしている。怒りや悲しみを原動力に変えることもできるけれど、負の感情に飲み込まれてしまうこともある。ネットの記事一つとっても、気になる人だけが関わればよく、私は自分が必要だと思うもの以外見たくない。幼稚な発想かもしれないが、自分を守るためなら、選択肢の一つとしてありではないだろうか。