MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

チャーハンを作る私はえらい。

 得意料理がパスタというと要注意らしいが、チャーハンも似たようなものかもしれない。フライパンに、溶き卵をいれ、ご飯と混ぜて、チャーハンの素をかければ完成だ。面倒なので、野菜は入れずに、代わりにキムチを入れてみた。誰でも出来るといわれそうだが、実は、このチャーハンが出来るまでには多大な労力がかかっているのだ。

 

 まず、材料を買いに行かなければならない。そして、米を炊き、皿を洗い、ようやく調理の準備が整う。これだけの作業を経て、チャーハンが完成する。忙しいにもかかわらず、労力を割いて、美味しいチャーハンを作った自分を褒めたい。料理も出来るなんて、自分の才能が恐ろしいと思いながら、箸を置いた。

 

 というのは、冗談であり、こんな初歩的な料理を作ったところで、誰も褒めてくれないし、生きていくために食事をとるという当たり前のことをしただけだ。むしろ、自炊歴のわりに簡素な料理しか作れず、レパートリーも限られていることへの劣等感を覚える。食器も、食後にすぐ洗おうと思っていたのに、めんどくさくて、今もシンクに積んである。料理という一面だけをみても、なんて怠惰なんだろうと自分自身に失望するしかない。たかが1度、チャーハンを作ったぐらいで自分を褒めるなんて、それ自体が恥ずかしいことのようにも思える。

 

 ここまでいくと、両極端な考え方になるだろう。しかし、心の中でどちらの解釈をしたところで、他人に見られるものではないし、否定されるものでもない。どうせなら、自分にとって都合のいい解釈を選択してもいいのではないかと思う。とはいっても、なんでもポジティブに考えるのは難しいから、さすがにこじ付けが過ぎるなと思いつつ、そういう考え方もあるかと思うことにした。心の中で考えることぐらい、少し自分を甘やかしても、誰からも怒られまい。

 

 チャーハンを食べた後、図書館に向かった。読書をしていると、なんだか隣の人が気になる。作業をしているのか、物音が耳についた。紙を折る音、消しゴムで字を消す音、本を粗雑に置く音など、気になりだすと止まらない。落ち着きを少し欠いているようだったのも、不快だと思った。が、注意するには躊躇われる。私が神経質なだけで、他の利用者は気にしていないようだったし、注意してトラブルになったら厄介だ。かといって、図書館は満席で、他の席に移ることも出来ない。読んでいる本を読み切るまでは帰りたくないし、結局一時間ほどその席に留まった。

 

 これも肯定的に捉えれば、我慢できてよかったということになり、いさかいにならずに済んだという点でプラスに考えることもできる。もし注意してしまったとしたら、その時はその時で、自分の意見を伝えられてよかったということにするだろう。欺瞞的で自己中心的な発想だが、自分で自分を守るために解釈を作り上げることが、そんなに悪いこととは思わない。というより、誰もが多かれ少なかれ、それに類することをやっているのではないかとさえ思う。

 

 苦しみを無理やり肯定的に解釈することは疲れそうで出来ないが、些細な出来事から都合のいい解釈を引き出し、自己肯定感に変換することは、出来る。恥ずかしさはあるが、誰にも言わなければ気づかれることもない。やはり、物事や現実はただそこに存在するようにみえるが、知覚を通じてしか認識できず、その解釈は心が作り出したものに過ぎないと思う。だったら、一つの解釈に縛られる必要はなく、自由に発想していいはずだ。ネガティブな解釈が出てきても、所詮、心が作り出した実体のないものだと思うことでやり過ごし、ポジティブな解釈が思いつけば、信じられる範囲で信じる。そうして、心の中だけ、こっそりとナルシストを演じてみるのも自分を守るために使える。今日も何もできなかったと落ち込むのではなくて、チャーハンを作ったことを自然に誇れるような心持ちになれたら毎日がもっと楽しくなると思う。その方が、次は何を作ろうかという気概も湧いてくる。もっとも、その前に山積みの食器を洗わないといけないが。