MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

人を見下すくせに何もしていなかった自分

 ブログを始めて2か月が経った。この際だから正直に告白すると、ブログは「痛い」ことだと思っていた。「痛い」というのは、自意識過剰で、気取っているという意味である。これはブログに限らない。趣味で詩や小説を書いている人も軽蔑していた。特に、同年代で創作活動をしている人を見下していたことは間違いない。自分ならもっとよいものが作れるのにと思うことも多かった。あたかも評論家にでもなったかのように、他人に評価を下していたが、自分から何かを始めることはなかった。


 挑戦せずに文句だけ垂れるというのは、典型的なクズ人間だと思う。けれども、釈明が許されるのならば、そのような評論家気分の態度をとる人は少なくないのではないだろうか。インターネット上には、「痛い」ブログや小説を晒し上げる掲示板が存在する。現実世界でも、中学生が自作の詩でも書けば、クラスメイトの嘲笑の対象になるだろう。それらは、質を向上させるための建設的な批評ではなく、自分を安心させるためのバッシングに過ぎないと感じる。少なくとも、私の場合は何もしていない自分を肯定するためであり、自分より劣位の存在をみつけて安堵するためであった。


 この思考は何事にも通底する。書店に平積みされている本をみては、時間と立場さえあればもっと良い本を作れるのにと思い、学生演劇を鑑賞しては、自己満足に過ぎないなと侮蔑していた。次第に、一生懸命に何かに取り組んでいる人を滑稽だと感じるようになり、一方で何事にも本気にならない自分を肯定するようになった。他人は「痛い」が、自分は「痛」くない。自分は何も成果を出していないくせに、他者、特に頑張っている人を見下し、神様気取りの評論家にでもなったかのように錯覚した。


 あらゆるものを見下す生活は、それなりに楽しかった。何も努力せず、今の立場に安住することを許してくれるのだから。今は、取り立てて大したことがない自分も、その気になれば結果を残せるのだという自信だけはあった。だが、時折、不安が頭を出してくる。このままいけば、本当に大したことがないまま終わるのではないか。何かに向けて、努力している人の方が、よほど輝いているのではないか。不安はどんどん大きくなり、他者へ向かうはずだった一方通行の軽蔑は、鏡のように反射して、全て自分に跳ね返ってきた。もう言い訳は終わりにしよう。そう決意した。


 他人を馬鹿にしている暇があれば、自分のやるべきことに真剣に取り組む。学業もサークルも、与えられた環境の中で、持てる力を尽くすように努めている。創作活動をする人たちを軽蔑するのはやめて、むしろ自分が実際にやってみることにした。同じ立場になったことで、初めて見えてくるものがあり、その難しさにも気づけた。


 ブログにも挑戦してみることにした。見る人が見れば、このブログも「痛い」だろう。侮蔑の眼差しを向けられているかもしれない。もう一人の冷静な自分が、無数の欠点を指摘してくれるので、もちろん自覚している。それでも、文句しかいわない傍観者よりは、当事者であることの楽しさが優る。何もしなければ、何も生まれない。多くの人に「痛い」と思われても、わずかでもいいから、誰かの暇つぶしに貢献していたい。ブログというと気楽なサービスだが、新たな経験で勉強になるし、他人のブログを読むのも参考になる。お金もかからないし、元から興味があったので、言い訳をせずにやり始めた価値はあると思っている。


 今でも、他人のことをとやかく言いたくなる時はある。そういう時は、これからどうしたいかを考える。本当に有益なアドバイスなら、本人が傷つかないように伝えればいいし、そこまでする必要がないなら、自分のやるべきことに集中することにしている。最初は、否定したい気持ちが先行してうまくいかなかったけど、段々と自分の課題と他人の課題を分離できるようになってきた。そんな醜い一面があることを忘れずに、本当にやりたいことに時間を使うよう心掛けたい。私の人生の主人公は、他人ではなく私だから。