MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

一見さんお断りの人間関係

 京都の料亭で会食。なんだか優美な響きであり、人生で一度は経験してみたい。だが、そういうお店は「一見さんお断り」で、常連から紹介を受けないと入れないと聞く。この制度は、独特の料金システムに由来するらしいけれども、なんだかお高くとまっている気がする。どれだけお金を持っていたとしても、人脈がないと入れないというのは、いけすかない。こういうわけで、一見さんお断りという制度は好きではないのだが、もしかして人間関係で同じことをしているのではないかと気づいた。

 

 例えば、人と仲良くなるにしても、自分から話しかけることはめったにしない。お店でいうなら、呼び込みをしないことにあたる。また、挨拶や雑談が苦手で、かつ人の話にあまり興味を持たないため、周りの人からみると話しかけづらいらしい。看板も暖簾も出さずに営業しているのと同じだ。これでは、どのコミュニティーにいても、存在を認知されていても、「一見さんお断り」だと思われても仕方がない。たまに、「前から話してみたいと思っていた」といわれる。そんなに興味があるなら、気軽に話しかけてくれればいいのにと感じるが、わざわざ会話することへのハードルが高いと思われているのだろう。きっと、お店の前を通りかかるぐらいの気持ちなのだと思う。「やっているのかな」と少し中の様子をうかがってみても、戸をくぐるには躊躇われるような雰囲気を作ってしまっているのかもしれない。

 

 また、よく話をする相手が、すでに仲が良くて素性が知れている少数の人たちだけというのも、話しかけづらさに輪をかけている。なぜ幅広い人と接さないかというと、相手から嫌に思われないだろうか、会話が続かなかったらどうしよう、話題に興味がないのかもしれない、ということが気がかかりだからだ。けれども、相手から話しかけられる分にはうれしいし、そこから深い関係に発展することもある。決して、他人を拒絶しているつもりはなかった。が、外から見ると、いつも同じ人と一緒にいるので話しかけづらいと思われているようだ。確かに、昔から人間関係を拡張しようとしてこなかった。新しく友人になるとしても、すでに仲の良い友人の友だちが多かった。まさに「一見さんお断り」だ。だから、興味を持たれていても、話しかけづらいと思われていたのだと分かった。

 

 それでも、高校までは成り行きで付き合ってくれている友人がいたので、そんなことは気にかけたこともなかった。大学に進学し、新たな環境で友だちを作ろうと思ったとき、壁にぶつかった。初対面の相手でも自分から話しかけ、次々と連絡先を交換していった。根暗で否定的な人間だと思われないように、自分の意見を言うことを控えて、周りに同調するようにした。お店で言うなら、呼び込みをしながらチラシを配り、メニューも一般向けに刷新したようなものだ。私は京都の料亭ほど高貴な存在でもないが、そんなことをして周りに合わせれば、常連さんも離れるし、何より自分の身が持たないことは明らかだった。結局、不毛な努力は長く続かず、「一見さんお断り」に戻ってしまった。分かるひとだけが分かってくれればいいんだ、そんな言葉を言い聞かせるように繰り返して、殻にこもった。

 

 売れればいいというわけではないし、友だちが多ければいいというわけでもない。だから、「一見さんお断り」の人間関係が悪いとは思わない。わざわざ声が枯れるほど呼び込んだり、メニューを変えたりする必要はあるまい。無理をしたところで、破綻するのは目にみえている。それでも、本来の自分の良さを理解してくれる人が増えるならば、そんなにありがたいことはない。本音をいえば、もっと愛されてみたい。そのために、暖簾を出して、営業中の札を掲げるぐらいなら、やってみてもいいかなと思っている。どんな方法があるかは思案中だ。あいさつをしてみる、見た目を少し変えてみる、いつも行かない場所に顔を出してみる、そんな些細なことがきっかけになるかもしれない。行列が出来るほどの繁盛店になるつもりはない。目指すは、路地裏にある隠れ家風レストランだ。興味を持ってくれるかどうかは、その人次第だ。こちらから働きかけて、お店に連れてくることは出来ない。けれど、お店の前で入ろうかどうか迷っている人に、入りやすい雰囲気を作ることは出来る。もともと興味を持ってくれていた人が気軽に入れるお店。これが、臆病で寂しがり屋の私が考えた経営方針である。