MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

救われたくて、何かを信じたい

 救われたくて、宗教施設を巡り歩いたことがある。仏教、キリスト教イスラム教はもちろんのこと、新宗教や日本ではあまり知られていない教団にも足を運んだ。今でも、街角に立っている宗教勧誘の人に話しかけて、話を伺ったりする。無節操な感じもするが、誰に尋ねても、信じるものを真剣に教えてくれた。それぞれ参考になり、ものの考え方として取り入れたこともある。だが、どこかの宗教に入信することはなかった。

 

 救われたいという動機を分解すれば、神や仏という絶対的な存在を信じることで、自分の存在意義を見出して、不安や憂鬱とは縁のない人生を送りたいということだ。だが、前提となる絶対的な存在を信じることが出来なかった。キリストやブッダは、確かにすごい人だと思うし、見習って生きていけたらよいと思う部分も多い。しかしながら、彼らが神や神に類するものだとは思わないし、それなら教義のいいとこ取りでもいいやと満足してしまった。信者さんに聞いてみたが、教義を完全に理解した上で、一切の疑いなく100%信仰しているわけではなさそうだった。それを聞いて、少し安心した。牧師さんでさえ、聖典の記述を頭から最後まで全てが真実であって、そのことを疑ったこともないとは言えないと声をかけてくださった。その上で、人それぞれ信仰の形を見出しているのだから、特定の宗教の信者という形をとっていなくても、自分が信じるものを追求していこうと感じた。

 

 それ以来、救いを求める対象は既存の宗教に限られなくなった。文学であったり、音楽であったり、誰かの言葉であったり、ありとあらゆるものを求めた。インターネット上の質問サイトに救われたこともある。自分の心に響いたものだけを摂取する偏食家だが、少しずつ信じたいものの輪郭が見えてきた。私は科学法則を全面的に信頼しているし、その意味では神の存在は信じておらず、信心深いとはいえない。それでも、自分の本心を偽らないこと、他人の評価に怯えたくないこと、全ては移り行き、苦しみもいずれ消えることなどといった自分の思考を形成するものが、信じたいことでもあり信じていることでもあることに気づいた。その中の大半は、過去に宗教者が既に語ったことだ。けれども、この遠回りのおかげで、それがどれだけ奪われたくないものか実感することが出来た。もしも真理というものが存在し、それを早く知れるならこしたことはないが、後から知ったからといって損をするほど狭量なものでもないだろう。

 

 元々の、絶対的な存在を信じることで救われるという目的は達成されていない。どこかで劇的な回心経験が得られるのではないかと思って、寺社仏閣や教会を巡り続けている。とはいっても、今はもう誰かが救ってくれるのを待ち望むことはやめつつある。いろんなことを見聞きし、自分で経験した上で、信じられるもの、信じたいことを信じる。それだけだ。聖書や仏典が私を導いてくれるかもしれないし、インターネットが救いになることもあるかもしれない。既存の宗教は、宗教として肯定しながら、自分なりの「信じる」の形を探す旅を続けていこうと思う。私は私の信じたいものを信じる。それが、私の信じていることだ。