MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

兵役に赴く友を見送る

 戦争、兵役、徴兵制―こうして並べると、ものものしい。歴史上の出来事であり、自分とは関係ないところにある言葉だと思っていた。外国人の友人が兵役に召集される段になっても、実感が湧かない。けれど、得体のしれないものが私の日常に介入してくるようで怖い。平和ボケなんていう使い古された言葉では表せない。見えない実体である国家が、一定期間とはいえ人の生き方を強制的に決める。もしかすると、命を失うかもしれない。そんな暴挙が許されていいのか、怒りも感じる。けれど、私を守ってくれているのは警察官や軍人といったリスクを引き受ける人々がいるからだ。文字通り命を懸けている人々の存在を無視してきた自分の薄情さにぞっとする。そういうことを思いながら、ただ彼を乗せた電車をホームから見送ることしかできなかった。


 何をいえばよかったのだろうか。兵役前に会えるのは最後ということで、夕食を共にした。軍隊生活のことを聞くのも野暮な気がするし、心配の言葉をかけて不安にさせてもいけないと思って、結局、聞き役に徹した。彼は、兵役やその後の生活のことを、淡々と話し、その目に憂いの色彩は無いように思えた。逃れたいと思っても仕方がないと思っているのかもしれないが、覚悟を決めているように感じた。改めて考えると、出身国を除いては、自分とほとんど変わらない人が、戦争を実行する主体になりうるなんて信じられない気持ちだ。私と握手をした手で、銃を握り、引き金を引く。命令が下れば、人をも殺す。そんな世界がこんな身近に存在するなんて、考えたこともなかった。国家や軍隊の強大な力の前では、人ひとりの生き方を変えることなど造作もないと思うと、いかに脆い基盤の上に生活が成り立っているかを思い知らされる。


 私は、反戦とか日本に徴兵制がなくてよかったということを主張したいわけではない。もちろん、平和は尊く、殺し合いなどしたくない。それでも、現状として戦争は無くなっておらず、警察や軍隊といった暴力を管理する者の存在なくしては生活が成り立たないのに、そのことに無自覚であった自分の冷酷さに恐怖している。死刑が執行されても、中東で戦争が起こっても、ヨーロッパでテロが起こっても、私の日常には何の影響もないと思っていた。が、そこでは、確実に、人が殺し殺されているのだ。にもかかわらず、人々の命は新聞の文字情報に還元され、束の間の話題として消費され、そして数日が経てば忘れられていく。何人の命が失われようと、日常は何の変化もなく繰り返されていく。そのことを当たり前だと認識している自分自身に何より腹が立つ。かといって、私に出来ることもない。ちょうど兵役に赴く友人を見送るように、何もせずに現実を受け入れるしかないのだ。


 出来ることがあるとすれば、ただただ祈ることのみだ。祈りといえば、「ニーバーの祈り」の一節を思い出した。それは、次のようなものだ。

「神よ、恩寵を私に与えて下さい。変えられないものを静穏に受け入れるために与えて下さい。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを私に与えて下さい」

 

 確かに、戦争や暴力を今すぐに無くすことは出来ない。変えられないものだ。けれど、日常の心がけは変えられる。私なら、日々を精一杯生きること、関わる人すべてに真摯に向き合うこと、自分の生を支えている存在に少しでいいから気を留めること、これらは実行できることだ。変えられないことを嘆くのでもなく、諦めるのでもない。残酷な現実を受け入れた上で、変えられることから変えていく、これが私に出来ることだ。祈りは実体を持たず、往々にして無力だが、何もしないぐらいなら、祈りの力に懸けてみたいと思う。神様は冷酷なやつではないと信じているから、祈りは聞き届けられるはずだ。再び会う日まで、友の無事を願って。