MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

自由に表現するということ

 料理の感想、服装の感想、映画の感想、旅行の感想、ことあるたびに感想を求められる。こういうたぐいの質問はいつも困っていた。内面をうまく言語化できず、言葉に詰まってしまうし、何も感じないことがよくあるからだ。小中学校では、感想を記述させる訓練が繰り返されるが、その時も筆が進まなかった。読書感想文に、遠足の感想、卒業文集と書く気の起こらない宿題に苦慮した。

 

 何も感じなかったから書けないというと、何も感じないわけがないと必ず言われる。実際、何も感じないことも多いが、書くに匹敵するものがないというほうが正確かもしれない。本を読んで、しょうもない話だと思ったとしても、そのことを感想文に書けば怒られるだろう。そんな推測が無意識に働いて、何も感じないと言うことにしていたのだと思う。自由に書いてごらんと言われても、それを純粋に信じて本当に自由に書いてしまったら怒られるのがオチだ。駄作だったとかつまらなかったとかを書くことは許されないだろう。一度、本当に思ったことを書いてみたが、書き直しを命じられた。自由に思ったことを書くといえば、虚構の本心を作り上げることだと思った。それから、作文嫌いに拍車がかかり、書くことに対する恐怖さえ生まれた。

 

 だが、今は心から感じたことを好き好んで書き綴っている。もう誰も評価してこないし、本当に思ったことを書いても許される環境になった。賛成しないことや納得いかないことをごまかさずに表現する。それによって、書くことが好きになっただけでなく、自分自身に本心を語ることを許すことにもなる。今や虚構の本心を作り上げる必要はない。嫌なものには嫌といってもよいし、誰かが決めた考え方に縛られず、自分の感情に従うことが許されている。表現する自由は、自分自身の心に自由を与えることでもあった。

 

 レポートや感想文も、もはや苦痛ではなくなった。自分の視点を盛り込めば、むしろ良い着眼点として評価してくれる。そこで求められる努力は、理想の学生像を演じることではなく、自分の視点をどれだけ論証できるかである。どれだけ独自の視点でもいい、大事なのは、なぜその思考に至ったかを、説得力を持って論を展開することだと教わった。いつでも、そんな考え方が受け入れられるわけではない。だが、もはや優等生の質の悪い模造品であることをやめて、オリジナルな自分を表現できることが救いだった。

 

 実利的なことを多く知っているわけでもない。特別な経験をしたわけでもない。だから、万人受けするような面白いことは書けない。ただ、少しひねくれている感性をそのままぶつけることで、少しの人に文章を届かせられる。それでいい。誰かの顔をうかがって、理想化された内面を作り上げ、誰かに咎められないように表現することはやめたのだ。優等生を演じているつもりだったのに、役が自分を演じ始めて、本当の気持ちが抑圧される生活はもういらない。本心に忠実に書くこと、それは本当の自分を生きることだ。この尊い自由の意味を噛みしめながら、今日も文章を書き綴る。