MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

弱さの開示を恐れない

 弱みを語れば、批判されやすい。メンヘラという言葉が、否定的な意味で使われることが多いように、弱音を吐くことや精神疾患の存在は、一部の人にとって受け入れがたいらしい。彼ら彼女らからの批判を避けるには、自分自身の弱みを押し殺して、気丈に振舞うしかない。けれど、それが出来ないから苦労しているのだ。そんな的外れな批判なら甘んじて受ける。

 

 そもそも、自称、精神が健常な多数派の価値観の押し付けに迎合することが望ましいとは思わない。人間は完璧じゃない。学校や会社に通えない人もいるし、生きていくことに課題を感じる人もいる。弱さとは、多数派を前提として作られた既存の社会システムとの齟齬にすぎず、人間としての欠陥ではない。だからこそ、弱さを開示することを禁止し、努力と結果だけを求め続けることが理にかなっているとは全く思えない。運よく自分が多数派に位置しているからといって、その地位に胡坐をかき、少数派の感性や生き方を否定することは、差別の一種だといってもいい。

 

 あるいは、自分自身の弱さを投影し、弱さを開示できる人を妬む心理が存在するのかもしれない。私もかつてはそうだった。苦労しているのに、誰にも認めてもらえない一方で、弱さを正直に語り、周りの人から慰めてもらえる人が手近にいると、色んな言い訳をみつけて攻撃し、欲求不満を晴らしていた。弱さを何一つ持たない人なんていないだろうが、弱さを語れる人は少ないと思う。弱さを語れる人は強い。

 

 弱さを語ることは、自分自身を理解するのに役立つだけではなく、弱さによる共感が新たな絆を生み出す。コミュニティーハウスのべてるの家には、「弱さを絆に」というスローガンが存在するという。悩みや困りごとが同じであれば連帯感が生まれるだろうし、そうでなくても目の前にいる相手の苦労を知り、弱さを抱える同じ人間であると認識することはつながりの形成に役立つだろう。私自身、インターネット上にある無数の弱さの語りに癒されてきた。もし、この世界で苦しんでいるのが私だけだったら、絶望するしかなかっただろう。弱さは、他人を照らす明かりにもなりうるのだ。

 

 また、弱さには社会の誤りを指摘する効果もある。歴史を遡れば、同性愛者であることは罪であり、人間として望ましくないとされたこともあった。これは弱さであり、矯正されるべきものとされたが、異性愛者であることを前提に作られた社会を告発する作用もあった。不登校やひきこもりは、ドロップアウトした人々の復帰の難しさを物語っており、それは個人の責任のみに帰するものではなく、社会の側が抱える問題点を明らかにしている。障害の社会モデルという概念があるが、弱さとは、個人の特性と社会の相互作用によって作り上げられているともいえる。弱さを語ることは、社会を変える力にもなりうる。

 

 弱さを語らせないという圧力自体が、人々の感じる弱さを無視してきた社会の性質を表しているといえる。弱さをどんどん語り、他人の弱さに共感し、慰め慰められる社会は、排除されるべきものだろうか。人間は完璧じゃないし、人間が作った社会も完璧ではない。なら、みんなで社会のバグを少しずつ直していくために、情報を共有するところからはじめるだけだ。

 

 

多数派、少数派については以下の記事でも言及しています。

 

myminority.hatenablog.com

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