MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

死にたいが言えなかった

 死にたい時に死にたいというのは意外と難しい。私は言えなかった。グーグルの検索窓になら打ち込める。だけど、人に話したりSNSに書いたりすることは、躊躇われて出来なかった。死にたいという言葉は、他の言葉より重い。この4文字は切迫した訴えであり、文字通り生死に関わる言葉だ。簡単に口にできる言葉ではない。


 精神科医との診察でも言えなかった。生きづらい、憂鬱な気分であると伝えることはできたが、死にたいと考えていることはずっと言えなかった。時間があれば自殺する方法を探し、家にある薬の量を計算し、駅や国道で飛び込みたい衝動を寸前の所でこらえていた時でさえ、ついぞ死にたいとは言えなかった。深刻性を分かってもらえず、効果が軽い薬を処方され続けた。今度こそ診察で言おうと思っていても、喉で言葉が詰まり、結局言えなかった。もし、死にたいといって真剣に聞いてもらえなかったらどうしよう、そんな恐怖もあっただろう。


 死にたさを取り扱う医療の現場でさえ話せないのだから、友だちや知人にも言えるわけがなかった。ネガティブなことでさえ言わないようにしていたが、ふとした拍子に「疲れた」「毎日に意味を感じられない」という言葉が喉をついて出てしまった。周りの人は大丈夫かと聞いてくれたけれど、そう聞かれたら大丈夫と答えるしかない。気を使わせるのが申し訳なくて、へらへら笑ってネガティブさを必死にかき消す。こうして、誰にも言えないまま死にたさを抱えていた。


 自殺する方法を探していたときに、自殺予防の団体のサイトを見つけた。死んではいけませんと言われたところで、死にたい気持ちは少しも変わらないものの、コーヒーハウスが近くで開かれていることをしった。コーヒーハウスとは、コーヒーを片手に、生きづらさを抱えた人が語り合う場のことだ。行ってみると、新参者で参加者の中でも若かったことから、よく話を聞いてくれた。死にたいという言葉はどうしても出てこなかったが、それぐらい苦しみを抱えていることは表現できるようになった。その時ばかりは、普段飲めないコーヒーも飲むことが出来た。


 そこからしばらく後に休学した。休学してから、自分の弱みを表現することにも躊躇いが少なくなった。無理をして気丈に振舞っても、頑張り続けることは不可能で、疲れてしまうだけなので、出来ないことは出来ないということにした。死にたい時は、「申し訳ないですが、今は○○が出来る状態ではないので休ませてほしいです」と素直に言った。死にたいという言葉はやっぱり重いし、使っていると本当にそういう気持ちになりそうで怖くもあるので、使いにくい。だったら、別の言葉で表現すればいいし、心配されることも必要だと思うようになった。ネガティブなことを言うことで、離れていく人がいるとしても、それは仕方がないことだと思う。他の人より気持ちに弱いところがあるのは否定しがたい事実なのだから、無理して付き合ったところで苦しいだけだ。


 精神科の診察では、さすがにきちんと状況を伝えないといけないので、その時は希死念慮と言うようにしている。「キシネンリョがあります」と暗号のように言えば、少しは死のイメージから離れられるからだ。あとは、お医者さんが質問してくれることに対して、返答するだけなので、一から死にたいというよりは言いやすい。もはや気持ちの問題かもしれないが、気持ちの問題は大事だ。

 

 結局、死にたいと言えずに、時々死にたいと思いながら、死ねずに、今日も生きている。