MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

人も食べ物も嫌いなものは嫌いなままで

  人の好き嫌いも激しければ、食べ物の好き嫌いも激しい。調味料の定番であるマヨネーズもケチャップが少しでもかかっていれば食べられないし、お弁当に入りがちな梅干しも食べられない。ドレッシングもシーザー系やタルタルドレッシングは受け付けない。コーヒーも牛乳も飲めない。こんな調子だから、給食には随分苦しめられた。

 

 牛乳は毎日出てくるが、冷たければ飲むことが出来るので頑張って飲んでいた。最初は、他の嫌いなものも食べるよう努力してみたが、口に含んだ瞬間に吐き気がこみ上げてきて、吐いてしまった。こういうわけで、普段は残すか食べたふりをしてティッシュに包んで、ゴミ箱に捨てていた。給食は完食するのが当然であり、食べられないのは犠牲になった野菜や動物に失礼だと思っていた。好き嫌いがないことは素晴らしく、アレルギーでもないのに食べられないのは自分のわがままであり、矯正されるべきだと信じていた。

 

 今では給食を食べる機会もなくなり、嫌いなものを食べることは格段に少なくなった。食べられないものが多く、食事の選択肢は限られるが、自分で料理を作れば苦労することもない。問題は、外食したときや友人と食事をとる時だ。どこに食べに行くにも気を使わせるし、意図せず嫌いな食べ物が出てくることもある。給食のように、あとでゴミ箱に捨てるわけにもいかないので、無理やり口に詰め込み、水で流し込んで対処した。行儀が悪いように見えたとしても、残すよりは行儀が良いのではないかと思っていた。けれど、「そんなに嫌いなら残せばいいのに」と言われて、目から鱗が落ちた。

 

 完食することは素晴らしい、残すことは罪だ。食事の目的は、完食することだ。いつのまにか、こうした考えが強迫観念のように取りついていた。でも、何のために食事をとるのだろうか。生きるために必要だから。それも一つの答えだろうけれど、それだけではないと思う。食事を楽しむという気持ちを見失っていたことに気付いた。料理を残すことは、褒められることではないし、動植物の命や調理してくれた人に失礼であると言われても仕方がないかもしれない。それでも、無理やり食べて嫌な気持ちになるよりは、自分が楽しむことをエゴイスティックに追求するという選択肢があってもいいのではないだろうか。極論をいえば、残してはいけないという法律はないわけだし、合法的な範囲で幸福を追求するのは当たり前のことではないか。好き嫌いを矯正するために、いつまでも苦痛な時間を過ごすことはもうやめにしようと思った。

 

 だったら、人間の好き嫌いも、どうしても関係を持たないといけない場合を除いては、好きにしていいのではないかと思う。全員と仲良くすること、交流を深めること、他人に恨みや妬みを持たないこと、全部できていなくたって別にいいんじゃないか。嫌いな人は嫌いだし、関わりたくないという本音を腹の底に隠し持って、生きてもいいんじゃないか。好きな人とだけ仲良くする偏食家で構わないから、好きなように生きたい。嫌いなら嫌いで何が悪い。開き直りかもしれないけど、せっかくなら自分を甘やかして生きていきたい。