MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

資格がないなんてことはない

 並外れた努力をした人のみが鬱病になることを許される。どれだけつらくても凡人以下の業績しか残せていない自分は、鬱を語る資格がない。こうした考えは、限界状態だった時にどこからともなく聞こえてきたし、自分自身で内面化していた。精神疾患への理解が少しは進んできたとはいえ、努力を怠っている人への視線は冷たい。ずば抜けた才能を持っている人は、体調を崩せば心配してもらえるけれども、そうではない凡人は、体調管理も出来ない無能だと思われるのが関の山ではないのか。そうやって、自分が鬱状態にあるという語りを禁じてきた。思えば、「○○する資格がない」とか、「○○の分際で」という言葉は猛毒を秘めた言葉である感じがする。


 何らかの指標において、一定ライン以下の人間は、語ることを禁止され、それに伴って特定の感情を感じ、考えることも禁止される。しかし、実際にはストレスや怒りは日常茶飯事であって逃れることはできない。語りの禁止は、自身の精神の不調を感じながらも、それを無視することを強いる。自分自身の感情を抑圧し続ければ、間違いなく更に大きな困難を呼び寄せるが、それでも休む資格がないので、遮二無二努力し続けるしかない。こんな状況に耐えて成長できるのは、ごく一握りの人間だけであり、多くの人にとっては地獄以外の何ものでもない。語りを奪う言葉は、これほど危険性があるのに、安易に使われやすい。


 特に、何らかの加害者やミスをした人は、こうした言葉を浴びせられやすい。確かに落ち度があるのだから、それに準じた振舞いを求められるのは理解できる。けれども、語ってはいけないとか感じてはいけないという命令の実践は不可能であり、いくらなんでも報復が過ぎるだろう。こうした異議申し立てさえ、落ち度がある本人からは言い出しにくい。人間は誰しも多少なりともミスを犯すので、こうしたことにつけこみ、徹底的に抑圧すれば、人ひとりをだめにすることなど容易いのではないかという恐ろしさも感じる。


 私は人間関係の中で怯え続けるうちに、何も言う資格がないのではないかと思ってしまうことがある。ブログとカウンセリング、診察の時だけは、素直な自分を出せるものの、利害関係のある相手が見ている前で、本音を話せば、すぐに「あなたにそう言う資格はない」という言葉が飛んできそうで怖い。でも、疑問なのは「資格がない」と言ってくる人がそれを言うだけの資格があるのだろうかということだ。


 無謬の人間でない限り、必ず失敗を犯す。失敗の大小や時期が異なるだけで、人間の間に序列を作り、言葉や感情を一方的に奪う行動が正当化することは決して出来ないだろう。私の言葉は私の言葉であり、私の感情は私の感情であり、他人が奪えるものではない。私は私が感じたことを語る資格があると信じたい。少し怖いけれど、このポリシーは曲げたくない。他人の無責任な言葉には絶対に屈さない。