MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

ルッキズムとセクシズムに支えられたパス度概念にみられるトランスジェンダーの保守性

 トランスジェンダーにとって、パスすること、つまり希望の性で誰にもばれずに社会生活を送ることは人生の至上命題とされてきただろう。その姿にリベラリストは、ジェンダー概念を覆す多様性の申し子の幻影を感じ取ったかもしれない。しかしながら、パスすることは社会に個人を合わせる営みの側面が強く、それどころからルッキズムとセクシズムを再生産してきた。多くのトランスジェンダーは、考えられているようなジェンダーを自由に越境するトリックスターとはかけ離れた、保守的な社会通念を補完しうる存在でさえある。

 

 性同一性障害の治療においては、見た目を希望の性に近づけることが大なり小なり目指される。その医学的手段は、ホルモン療法や性別適合手術などがあげられる。もちろん、服装や化粧、小物類を希望の性に合わせるということも同時に行われるだろう。これらは、当事者がその方が自分らしく感じられるという動機の他に、パス度を上げるために必要とされるからという理由も潜んでいることを見逃してはならない。パス度とは、どの程度、通常、生まれつきの性とは、反対の希望の性でパスできているかを表す用語である。当然、人は見た目で性別を判定することがほとんどなので、パス度は外見や仕草にまつわるものが多い。ここで参考にされる外見は、希望の性を生きる人々の中にいる人なら誰を参考にしてもよいのではなく、典型的な外見が要請される。女性としてパスしたいのなら、丸刈りの女性ではなく長髪、少なくともショートカット程度の女性がモデルとして意識されることになる。挑戦的な服装や非典型的な髪型は、人々の注目を集めることになり、無意識下で特に気に留められることもなく、希望の性の一人間として処理されることとは明確に反する。パス度を上げるとは、当事者が考える、希望の性の典型的な外見や仕草を真似て、自らも実践することである。当然、男性/女性はこのような服装であるべきだという社会通念の影響を受け、再生産することにもつながるだろう。仕草や話し方は、往々にしてその性別の人々のあり方とも関わることであり、セクシズムとは切っても切れない関係だろう。

 

 パス度の高低は、パスが望ましいこととされる以上、必然的に規範性を帯びる。つまり、パス度が高いことは望ましいことであり、パス度が低い人は向上させなければならないとみなされる。パス度が低いままでとどまっていることは、トランスへの本気度を疑われるかもしれない。また、パス出来ないのは努力が足りないからだという自己責任論に回帰する可能性もある。ここで見え隠れするのはルッキズムである。生理的に嫌悪感を覚える見苦しい女装をそれだけの理由で批判することは難しくとも、パス度という言葉を使えば、不面目な容姿が個人の努力の問題に還元され、努力不足として批判する道が開けてくる。また、パス度と当事者本人の性自認や性別違和の強さは無関係であるとされることが多い。なぜなら、パス度とは実践や他者からの評価を指すからだ。この際、パス度とはルッキズムに直結する。大事なのは、男性/女性としてみえるか、男性/女性としての評価基準でどれだけ美しいかである。本人がどれだけ自分の容姿に納得していようとも無関係に、他者があいつはパス度が低いという評価を下しさえすれば、それを仲間内で共有することが出来る。そこで考慮されるのは、それぞれの美的規準に従った判断であり、繰り返すように内面は関係ない。実際にトランスを実現した者からすれば、メイクや筋トレによってパス度を上げることは可能であるにも関わらず、それを怠っている者という評価を下すことも可能である。となれば、通常の社会のルッキズム以上に、自己責任論が付随してくることになる。

 

 ここまでの議論を振り返る。当事者にとってパスすることは悲願である。そのためには、パス度を上げなければならない。パス度を上げるには、努力し、典型的な男性像/女性像を取り込み、模倣することが求められるという図式がある。このままの自分でパスしたいという願望があったとしても、社会が急速に変わらない限り、その願いは聞き届けられない。こうして、性別移行を望むトランスジェンダーは、社会に自らを合わせることになる。そして、自らが社会通念を再生産する立場になり、場合によってはそこから外れている人々を攻撃する可能性さえ生まれてくる。トランスジェンダーは、時代の寵児でもなんでもない。一人の人間だ。だからこそ、幸福を願えばこそ、既存の社会通念を補完する動きをとってしまうのではないだろうか。こうしたトランスジェンダーを保守的だと批判することは容易い。けれども、パス度の呪縛から逃れたくても逃れられない当事者もいるのではないかと思う。ここには、単に理解を求めるだけでは変わらない、人間の一瞬の無意識的な性別判定システムやルッキズム、セクシズムに横たわる問題が通底しており、いずれきちんと考える必要があるのではなかろうか。