MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

差別か被害妄想か

 私に向けられる侮蔑的な眼差しや態度は全て差別な気がする。と言ってしまえば、完全なる被害妄想になるのかもしれない。とはいえ、どうやって差別と被害妄想を区別すればいいのだろうか。相手が、長髪の化粧した男性が気持ち悪いなと思えば、トランスジェンダー差別ということになろうか。第一印象がマイナスで、後から私自身の失敗によって嫌われた場合はどうだろうか。最初の段階で不快な思いをしたことが、トランスジェンダーであることに起因するなら、差別という気もする。だから、ファーストコンタクトで不快な対応、もっといえば私が満足いなかない対応をとられば全て差別のように感じられてしまう。

 

 生まれつきの女性であれば、もっと気さくに話しかけてくれたかもしれない、もっと会話が盛り上がっていたかもしれないと思うと、自分自身の性と生を恨むしかない。ある行動がどういった原因から引き起こされているかなんて、分からないし複合的なものだと思う。けれども、その中に0.01%でもトランスジェンダーであることが含まれているのなら、トランスジェンダーであることが原因なのだと短絡的に結びつけてしまう癖がある。これは私がトランスジェンダーでなくなる日が来るまで、解消されない悩みだと思う。そして、そんな日は決して訪れないだろう。これだけの話であれば、差別だと思わないように生きようという個人の教訓の話で終わりだ。だが、事態はそう単純ではない。

 

 世間にはトランスジェンダーに対して差別的意識を持ち、差別的発言をする人がいる。そうした態度に対し抗議の声をあげなければ、自分自身の不利益になるだけではなく、他の人が害を被ることがありうる。そうなれば、不当な扱いに抗議することは義戦となり、正義の名の下に正当化される。自己肯定感も担保され、気持ちよく過ごせるだろう。問題は、繰り返しているように、差別と被害妄想がどこで、どのようにして、区別する線が引けるかだ。

 

 東京人権啓発企業連絡会によると、差別とは「本人の努力によってどうすることも出来ない事柄で不利益な扱いをすること」らしい。これを判断する主体は誰なのかはっきりしない。第三者にとって明確に立証可能なこともあるだろうし、不明なこともあるだろう。また、「個人的なことは政治的なこと」という第二次フェミニズムのスローガンは、これまで私的領域に押し込められていた問題を公的に問題提起することを可能にした一方で、個人の資質がほぼ大部分の原因のことでさえ政治的な文脈に引きずり出してしまった副作用も伴っていたといえるだろう。私が感じた不快な感情は、個人的なことでありながら政治的なこととなり、差別として問題提起されうる。私は差別も被害妄想も繊細に感じられる感受性を有している。だが、私の被害妄想が政治的問題でないことは分かる。果たして、私はどうすればよいのだろうか。

 

 同時に、あらゆるマイノリティにおいて差別とそうでないものを区別することは求められるはずだと思う。女性だから、若いから、下にみられるというのはよく聞くが、結果をどの原因に帰属させるかは結局本人次第なのではないか。もっと勉強して、自分なりの解を出せるようにしたい。