MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

アンチセクシャルという選択肢

 この国では恋愛も結婚も自由だというが、本当にそうだろうか。いい歳をした大人が結婚していなければ、何か良からぬ事情があると勘繰られるし、そうでなくても恋人がいない人は、リア充の対義語である非リア/非モテなどと呼ばれる。街にはラブソングがあふれかえり、思春期になれば誰しも恋心を抱くとされる。同性同士、特に男性同士なら猥談はコミュニケーションの重要な一手段である。性欲がないなどと言えば、聖人ぶっていると言われるだろう。LGBTという言葉が普及した現在、恋愛の形は異性愛でも同性愛でも変わらないと喧伝されるようになったが、そこでも恋愛感情は自明の前提として存在する。このように、社会は私たち一人ひとりの意思とは関係なく、人間に恋愛感情や性的感情があるのは当たり前であるとみなしており、評価や業績をそれらに付随させて考えるという価値観に基づいた枠組みを押し付けているとも言えないだろうか。


 では、この枠組みから外れた人は、どうすればよいのだろうか。そういう人々を、アセクシュアルという言葉で包摂する試みもあるだろう。アセクシュアルとは、簡単にいえば恋愛対象や性的欲求がない人という意味で使われることが多い概念だ。自分自身がアセクシュアルだと思い、この言葉を受け入れるのならば、社会が作った枠組みから抜けられるかもしれない。しかしながら、この言葉の認知度はかなり低く、理解もされにくいのが現状である。アセクシュアルに限らず、恋愛対象がいないといえば、まだいい人に出会っていないだけだとか、あなたの考え方が子どもで恋愛を理解できるほど成長していないとか、上から目線の指摘を受けることにもなるだろう。それでも、こうした概念を指す言葉があることは一種の救いかもしれない。しかし、恋愛感情や性的欲求は、あるか否かで二分できるものだろうか。もっといえば、恋愛感情や性欲を前提とする社会の生きづらさは、アセクシュアル以外のマジョリティーにも存在するのではないだろうか。


 そもそも、恋愛感情が“ない”ことを証明することは困難を極める。そうした感情が希薄なだけで心のどこかにあるかもしれないし、自分では違うと思っていた感情が恋愛感情にあたるのかもしれないし、その逆もありうる。今はないが、将来的にはあるかもしれないし、過去にはあったが今は存在しないことも、考えられるだろう。世間一般でいうところの恋愛感情は、他人との会話や、音楽や文章といった文化から摂取しているに過ぎない。だから、恋愛感情とは、だいたいこのようなものであると、推測を立てているだけであって、誰かの持つ恋愛感情をそっくりそのまま自分の心の中に再現することは出来ないし、検証のしようもない。また、恋愛感情を持っていたとしても、その質や程度が他の人と違うように感じられる人も、生きづらさを感じるだろう。例えば、好きな人はいないが恋愛はしてみたい、恋愛をしているがあるべき恋愛像がよくわからない、友情と恋愛感情をはっきり区別できない、複数の人や特殊な属性を持つ人に恋愛的に惹かれるなど、人の数だけ様々な形があると考えられる。ここまで述べてきたことは、性的欲求についても、同様に当てはまる。


 さらには、性的な行為や存在そのものに対する留保や嫌悪感もあるだろう。自分自身が生殖可能な身体を持っていたとしても、精神がそれを受け入れるかは別次元の問題であり、自らの性的な身体やそういった行為に嫌悪感を抱く人がいても不思議ではない。嫌悪感が自身の性認識と反対であることに基づくとされる場合は、医学的には性同一性障害(性別違和)といった診断が下されうるし、そうでなくてもトランスジェンダーという呼称も広く使われている。ただ、アセクシュアルで全てが包摂できないのと同様に、トランスジェンダーと自認していなくても、こうした生きづらさは存在するのではないだろうか。思春期以前から持っていた身体イメージと、成長した実際の身体が齟齬をきたしたり、自身の性別については確信を持っているものの性的な行為にはためらいがあったり、性的な行為は行うが罪悪感があったりと、性嫌悪やトランスジェンダーという概念では包括しきれない幅広い悩みがあると思う。


 これらを踏まえれば、普遍的に妥当するとされる社会通念が、いかに実情に即していないか、それにもかかわらず個々人がその通念に内面を迎合させるよう仕向けている社会やその構成員の存在が明らかになる。この通念に同意できない人々は、存在を不可視化されるだけではなく、悩みや生きづらさを抱えていること自体、語りにくくなっている。その証拠に、このマイノリティーは自身のアイデンティティを表す言葉すらない。ある集団を指す言葉を作れば、それに当てはまらない人々を疎外することは承知の上で、自らの所属を表す言葉と、言葉を語る場を設けることが求められていると感じる。

 

 そこで思い出すのは、ある大学の先生が「私とアンチセクシュアル」というタイトルで作文を書くよう、学生に課題を設けていたことだ。アンチセクシュアルという語は英語圏の発祥であり、ここで使われている定義は、英語のantisexualismとは異なる。性欲や性行為に反対するという意味を超えて、人はみな恋愛・性欲・性的身体を持っており、それぞれ標準的なあり方が存在することを前提とする社会に違和感や反感を持つという意味で使われている。付言しておくと、これは講義の中で私が読み取った定義であり、その先生は明確な定義をせず、学生に思うところを自由に書かせていた。今になって考えれば、アンチセクシュアルという言葉は、自らのアイデンティティを表しうる語であり、課題を通じて、当事者に語る場所を提供するという側面もあったと感じられる。


 アンチセクシャルという言葉の使用は、自らが囚われている問題を言語化・可視化する可能性を秘めていると思う。さらに、言葉に柔軟性を持たせることで、アンチセクシュアルを名乗るも名乗らないも途中で変えるも自由にできるし、二項対立から取りこぼされる人々をも包摂しうる概念となるだろう。自らがアンチセクシュアルではないと感じたとしても、自分なりのアンチセクシュアルの定義を打ち立てることも出来るし、自身の持つ多面的なアイデンティティの一部をアンチセクシュアルと形容することも可能だろう。恋人がいても、恋愛感情をもっていても、自身がアンチセクシュアルであると述べてよい。個人が勝手に解釈できるのであれば、曖昧すぎて使い物にならないと思われるかもしれない。けれど、今のところは、アンチセクシュアルという緩やかなつながりによって、存在を可視化し、語る場を作っていければいいなと思っている。こうしたマイノリティー―もしかすると、マジョリティー―の中で、更なる分類や厳密な定義が必要になれば、その時に新たな語を開発していけばいいというのは悠長すぎるだろうか。どちらにせよ、ある属性では同じとされるアイデンティティ内の差異を矮小化することなく、かつ差異によって分断されることなく、社会通念によって不可視化されてきた生きづらさを可視化することが必要であると信じている。そのためには、アンチセクシュアルという語は有用であるし、個々人の生きづらさを言語化するにも役立つだろう。アンチセクシュアルは、これまでアンチセクシュアルの存在を無視し続けてきた社会に対する反撃の狼煙となるのかもしれない。