MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

子どもをみるとイライラする理由

 子どもをみるとイライラしてしまう。もちろん自分の子どもではない。楽しそうにしていても、泣いていても、走り回っていても、視界に入るだけで憎悪の念がふつふつと湧き上がってくる。社会的には子どもは可愛いものであり、子育ては応援されるものだ。直接嫌なことをされたわけでもないのに、嫌悪感を持つのは少数派ということになろうか。自分に余裕がないからだと言われれば、それでおしまいな気もするが、それだけではない。


 子どもが嫌いな理由はたくさんあるが、第一に、子どもは行動の予測が立てにくいことがあげられる。素朴な分(ほんとは素朴じゃないと思うが)、大人ほど何をすべきで何をしてはいけないかを理解していない。だから、公共の場で、奇声を上げたり、騒いだり、地面に寝転がったりする。最悪の場合、私の身体や財産に対して、無自覚に危害を加えてくる可能性もある。彼らの成長には適度な外出も必要だろうから、迷惑だといって完全に排除することも出来ない。または、自分も幼いときそうだったはずだから大目にみろと言われるだろうか。その場合でも、彼らを許してあげることはできても、私の心が感じた憎悪は無くなることはない。


 声が大きいのも神経を逆なでさせられる。もともと大きい声が苦手なので、子どもが騒いでいるのを聞くと、心がざわざわして落ち着かなくなる。直接言ったことはないが、彼らに静かにしてほしいといったところで、聞く耳を持たないだろう。この悩みも、子どもはそういうものだという社会通念があり、感覚を社会通念に合わせるべきだという更なる通念も存在する。また、往々にして子どもの近くには保護者や保育者がいて、時々子どもに指示を与えたり、叱りつけたりする。子どもに理解させるためか、本人が苛立っているせいかは分からないが、これもまた大声かつ攻撃的な口調で言葉の弾丸を浴びせている局面に時折遭遇する。自分が怒られているわけではないが、なんだかこちらまで不快な気分になってくる。


 たとえ、これらを我慢できたとしても、どうしても許せないことがある。そして、これは私の問題でもある。笑ったり、泣いたり、子どもたちは自身の感情を自由に発露している。そして、子どもという立場を利用して、感情を爆発させることで、周囲の人々に狡猾にも要求を突き付けている。だらしない服装のおじさんが、公衆の面前で慟哭したり大声をあげたりしたところで、危険な人だと思われるだけで、誰も話を聞いたりあやしたりしてくれるはずがない。子どもは、この意味において特権階級であり、憐れみを引き出しやすい立場にある。そして、彼らはそのことを熟知しているというのが私の考えだ。では、これも子どもなら、誰しもよくあることだから我慢するべきと言ってよいだろうか。少なくとも私の幼少期は、街でみかける子どもたちのようではなかった。庇護を求める気持ちが非常に強く、保護者に見捨てられないために、歯向かうことはほとんどしなかったと記憶している。周囲の人々からは、おとなしい子どもで物欲が少ないといわれたが、それは元々そういう性格だったのではなく、逆らえなかったからだ。泣くことに関しては、かなりの頻度で外でも泣いていたのでなんとも言えないが、成長してからは一人で隠れて泣くことが多かったし、今でもそうだ。要するに、私は子どもたちと自分の幼少期を比べ、彼らを羨ましく思い、彼らに嫉妬しているのだ。嫉妬の炎を鎮めるには、過去を変えることは出来ないので、今幸福を感じることで過去の重要度を下げるしかないと思う。だけれど、今のところ、そんな余裕は持てそうにない。結局、自分に余裕がないからだという最初の結論に戻ってくる。どうしたものか。