MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

本当の友達という神話

 本当の友達が欲しい。会いたいときに会えて、なんでも話せる相手が欲しい。そう思い続けて、何年になるだろう。友達とはどのような存在なのか、ずっと考えてきた。未だに答えは出ていない。いっそ他人に期待することをやめてしまおうかとも思う。友達といえる人はいるのに、どうして無邪気に信じることが出来ないのだろうか。

 

 私は、もともと人付き合いが苦手で、社交的ではないせいか、一般に友達と呼ばれる存在の人が少ない。じゃあその少ない友達を大切に扱えばいいという話になるが、なかなかうまくいかない。なぜなら、私にとって希少な友達であったとしても、相手にとってはたくさんいる友達の内の一人にしか過ぎないからだ。私が相手のことを思うほど、相手が私のことを考えてくれていないと思うときがある。その結果、思いが一方通行になり、不満がじわじわと蓄積することになる。秋葉原で通り魔殺人を起こした加藤智大死刑囚も、似たようなことを言っていた。彼は「俺にとってたった一人の大事な友達でも、 相手にとっては100番目のどうでもいい友達なんだろうね。 その意識のズレは不幸な結末になるだけ」という言葉を残している。本当の友達なら、私のことをいつも気にかけてくれて、他の友達よりも優先して私と会い、話を聞いてくれるのでないかと思うし、そんな人がいたらもっと人生は楽しくなるはずだ。

 

 嫌われるのではないかという恐怖も頭をよぎって離れない。今、相手が自分と付き合ってくれているのは、相手にとって何らかのメリットがあるからであり、メリットが失われれば関係は解消されてしまうのではないかと感じる。私からみれば、数少ない友達を失うことは耐え難いし、多少嫌な思いをしても、相手と付き合い続けることを選ぶしかない。けれど、相手からすれば、私なぞ多数の友達の一人でしかなく、言ってしまえば代替可能な存在だ。私は嫌われないように必死になって、相手に従い、自分を取り繕う。相手は、そんなことなど心配せず、自然体でいられるし、私を攻撃したり愚痴を浴びせたり、憂さ晴らしをすることもできる。そんな状況でも、友達を失うよりましだと思えば、私は何も言い返せない。でも、それが友達と言えるのだろうか。

 

 高校の頃の友達は今でも連絡をとってくれるし、ご飯にも誘ってくれる。彼らといる時間は確かに楽しい。けれども、彼らは彼らで新たなライフステージに進んでおり、いつも一緒にいたり、頼ったりということは出来なくなってしまった。新たにできた友達の多くは、いつのまにか連絡もとらなくなり、一部の人たちには陰口を叩かれるようになり、今では友達、正確には思いが不均衡だが一般に友達といわれる人々は数えるほどしかいない。こんな惨めで恥ずかしい自分を変えようと思い立ち、威信が傷つけられたと感じた時には反論するようにしてみた。すると、喧嘩がたちまち増加し、友情もますます希薄になってしまった。結局、都合のよい格下の存在でしかなく、私の人格や個性など最初から求められていなかったということなのだろうか。

 

 私も同じことを何度も繰り返すほど馬鹿ではないと信じたいので、それなら友達ごっこを止めて、孤独に生き抜こうと最近、決意した。自分の正しさを証明してくれるのは自分だけで、自分を愛せるのは自分だけだ。他人からの批判に耳を傾ける必要なんてどこにもない。そう自分に言い聞かせている。本当の友達なんて、どこにもいないのだ。友達に恵まれている人は、そう装っているだけで、自分が同じ状況になれるとは思ってはいけない。そう考えると、気分は少し楽になった。一人で行動する自分はかっこいいと思う。素直じゃないと言われたとしても、私が生きていくには強がらないと生きていけないのだから仕方がない。本当の友達はいないのだ、そう信じるしか今は生き抜く術を知らない。