MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

躁鬱の境界線

 かかりつけの医者に躁状態の可能性が高いと言われた。確かにブログを始めたり、友だちと喧嘩したり、大学の先生に議論を挑んだりと、いろんな意味で活動的であることは間違いない。でも、これが病気の症状であり、治療の対象となるのなら私の個性や性格といったものは全て病気に還元される気もする。

 

 昔から気分のムラが激しいとよく言われてきた。気分がいい時には、やるべきことも迅速にこなし、パフォーマンスを他人から褒められることもあった。気分が優れないときは、何をやってもうまくいかないように感じ、生きる意味がないとさえ思ってきた。これらは躁と鬱の移り変わりの典型例であるとして、あなたは躁うつ病双極性障害)であるからだと言われれば、確かにその通りな気もする。

 

 私は狂気の人間なんだろうか。自分が特別な存在のように思えて、冗談めかしてイエス・キリストの生まれ変わりだと言ってみることもある。何も訓練を受けていない自称ライターの分際だが、1時間に3000文字以上書いたり、著名な先生方に議論を挑んだり、最近は小説を書き始めたりと色んなことに挑戦している。最近、生きていることが楽しい。それは素朴な実感だ。けれども、これも躁状態の症状の一つにしかすぎず、暗黒の鬱状態が手ぐすねを引きながら待ちかまえていると思うと、将来を悲観してしまう。そのために、気分安定薬を用いた治療があるのならば、それに応じることが自分にとって何より最善の選択肢のように思える。

 

 だけれど、この爽快な気分、全能感は病気のせいなのだろうか。私の個性とはどこにあるのだろうか。憂鬱な気分や自分は誰の役にも立てないという心情が病気によって思い込まされているとすれば、救いがあるような気はする。でも、自分が社会に必要とされている、人の心に訴えかける文章が書けるというのが病気の症状で、治療されるべきものだとしたら、私の本来の個性や性格とはどこに存在するのだろうと思えてくる。

 

 ここ数日、ルーランという抗精神病薬を飲んでいる。この薬は私ととても相性がよく、攻撃的な気分はすぐに静まり、被害妄想を劇的に緩和してくれる。要するに、この薬を飲むと生きやすいように思われる。とはいっても、このブログの記事は攻撃的な気分ゆえに、社会通念を批判的に考察することが可能になって書かれたところもあり、創作意欲を削がれる側面もある。アルコールも些細な事をどうでもよいと感じさせる作用があり、私は今日もストロングゼロを愛飲している。が、極めて細かい事項が気になるがゆえに、そのことを突き詰めて考えるという思考プロセスを誤魔化しているだけではないかという疑念もつきまとう。

 

 精神疾患の症状と私本来の性格は切り離せるのだろうか。自ら命を絶ちたいという願望は心からそう信じているのではなく、病気によって思い込まされているのだという説明は、受け入れやすく、希望も感じられる。では、爽快感やエネルギッシュな私が病気によって引き起こされており、病気がなければそのような心情は引き起こされないのだとしたら、その状態は受け入れがたく、踏み込んでいえば、治療を拒否したい気持ちにも駆られる。こんなことは精神疾患のない「普通」の人は考えないのだろうか。精神病は寛解といって、生活がある程度問題なく送れるほどに回復することはあっても、最初から無かったように完治することはなかなか難しいようだ。だとすれば、一生、病気と付き合っていく必要があるが、今の私には病気や専門家である精神科医との距離感がどうしてもつかめない。被害妄想や幻聴を抱えながら、何の医学的介入もないまま大学進学を果たし、精神医学でいうところの躁状態によって危機を乗り切ってきた。口論が増えたり、周りの人に嫌われたりといった犠牲を払ってきたものの、躁状態が私を助けてくれた部分もある。また、高校生の私は心の中で思ったことは何でも実現すると無垢に信じていて、それだけを頼りに受験勉強に励んだ。もし、当時から治療を受けていれば、この大学に来ることも無かったし、今の私もない。少ない友達に、あなたは変わったところがあると言われるものの、個性として受け止めてくれる人もいる。ここまで考えて、その人本来の個性と治療対象とされる狂気の境界線はどこにあるのか、全く分からなくなってしまった。

 

 フーコーを参照するまでもなく、狂気や異常の定義は時代によって移り変わり、社会によって恣意的に定められる一面があることは否定しがたい。私は自分のことが正常であるとは思わない。このブログのタイトルが象徴的に示すように、少数派であり、少数派の感性を持ち、その結果、社会から疎外されたとしてもやむを得ないところがあると思っている。とはいえ、服薬の指示は遵守するにしても、私が今感じている感覚が症状の一つとしてみなされ、精神病者の戯言として回収されたくはないと強く願う。この社会に生きる多くの人にとって、精神疾患はどこか縁遠いもので、私の叫びも狂気に陥った一患者の哀れな足掻きでしかないのかもしれない。しかし、一症例の背後には、それぞれ一人ひとりの人生があり、関わった無数の人がいて、病気の結果という言葉では表しきれない要素があると信じている。また、精神疾患はもはや特定の人々だけに適用される話題ではなく、人間なら誰しもかかる可能性があるものとして語られるものとなってきた。だからこそ、狂気という言葉で誰かの行動を説明することは簡単だが、いずれ自分が狂気に囚われた人として扱われる可能性もあることを考えなくてはいけない。

 

 私自身が狂気の中にいるかは分からない。薬を飲むと気分が落ち着き、余計ないさかいを避けられることも確かだ。だとしても、今の私が感じたことは病気のせいであったとしても、全くの虚構ではないはずだ。今、苦しいこと、楽しいことは忘れたくないし、忘れないために文章の形で記録したいと思う。たとえその行為に生産的な意味がないとしても、私は私の感覚を大切にしたい。それは、他でもない私が感じたことだから。