MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

はじめての紅葉狩り

 紅葉狩りに出かけてきた。街中で紅葉を眺めることはあっても、わざわざ紅葉を見るためだけに外出したのは生まれて初めての経験だ。これほどまでに美しい景色に心惹かれることは去年までは無かったし、そんなに上を見て歩いていなかった気がする。景色といえば、今年の桜も、とても美しく感動したことを覚えている。去年までの自分は何を見ていたのだろうか。


 過去を振り返るまでもなく、私は花見があまり好きではない、どちらかといえば嫌いだ。理由はいろいろあるが、地面に近いところでごはんを食べるという行為が汚らわしく感じられるし、花見のために集まった友人たちと会話しないといけないのが苦痛だった。人混みも嫌いで、人が群れをなしているだけでも気分が悪くなるし、不規則な動きと四方八方から聞こえる声で平静を保てなくなる。花見というと、何をみたかよりも何が嫌かということの方がすぐに思い出される。


 また、美術に苦手意識があることも、自然に注目することを遠ざけてきた原因の一つかもしれない。もともと絵を描くことが不得意であったが、義務教育なので避けることも出来ず、しぶしぶ取り組んでいた。下手なことは自覚しながら、自分なりに頑張ってみても、ひどい絵が出来上がるだけで、学期末には毎回のように低評価をつけられたことを覚えている。今となっては、ばかばかしい空想ではあるが、もともとの題材が存在しなければ模写もせずにすむと思ったのかもしれない。さらに、価値のよく理解できない自然や自分の顔を模写の対象にするほど美しいとは思えず、それが美であることを自明のものとして内面に入って強制してくるところが嫌だったのかもしれないと、今なら言語化できる。


 桜や紅葉に限らず、何を美しいと思うかどうかは人それぞれだ。盆栽や絵画の価値は誰しも理解できるものではない。美術作品でなくても、その人にとっての価値はその人にしか分からないだろう。例えば、街中で同性カップルが手をつないでいたとして、ある人は好ましいと思い、ある人は何も感じず、ある人は嫌悪感を抱くだろう。また、年齢や経験と共に嗜好もたえず変化するので、現在きらいなものが、これから先もずっと嫌いかどうかは、その時になってみないと分からない。


 今日感じた美しさは、ずっとそこにあって、過去からきっとほとんど変わっていない。けれども、理由は分からないものの、紅葉や桜を楽しめるようになった。心境の変化といってしまえば、それまでだが、嫌いなことや興味のないことの中にも好きなことがこれから現れるのなら、なんだか未来が楽しみになってくる。集団で話したり、ご飯を食べたりすることは避けるようにしているけれど、いつかはそれも楽しめる日が来るかもしれない。今はその魅力も感じないし、楽しめるようになりたいとは思わない。だけど、生きているだけで楽しいことが増えていくとしたら、なんて幸せなことだろう。楽天的すぎるかもしれないけど、その可能性を信じてみたい。