MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

言葉を発する覚悟

 私は疑問に思ったことや反論は、臆面もなく言うようにしているし、そのことによって、「和」を乱したとみなされる可能性も認識して発言している。だから、その結果として嫌われたり不利益を被ったりといったリスクは覚悟している。言い方やタイミングには気を付けるべきだと思うが、他者への配慮というお題目で異論が封じられることはあってはならないし、そうした試みには断固として抵抗する。


 その場の同調圧力や雰囲気に反する発言は、内容を問わず和を乱したという一点において往々にして批判される。その際には「まわりのことを考えろ」「ここにいるのは、あなただけじゃないんだから」「みんな同意しているから」などといったレトリックが用いられる。けれども、不規則に叫び声をあげたのでもなければ、誰かを謂われなく誹謗中傷するのでもなく、ただ進行中の事柄について意見を述べたのであれば、発言という行為それ自体の正当性をどうして否定することができようか。反対意見があるのであれば、発言の内容に反論するべきであって、発言する権利そのものを奪うことはあってはならないと思う。


 なぜここまで強硬に言葉を発する権利を擁護するかといえば、こうしたレトリックが多数派の支配のために役立てられてきたからだ。黒人を差別する代わりに、圧倒的多数の白人が安住できる環境があったとして、黒人が差別に対する異議申し立てをすれば、白人にとって耳障りであり、和を乱すものに映るだろう。男性中心主義の職場で、女性差別を告発すれば白い目で見られるだろう。同性愛者を揶揄して盛り上がっている仲間内の会話で、疑問を差し挟めば興ざめだといわれるだろう。だがしかし、こうした一人ひとりの発言の積み重ねによって、社会通念が強化/再生産され、差別構造が温存するのであり、それを打破する契機もまた一人ひとりの言葉にあると信じている。


 これは上位の者に対する進言でも同じである。教師は学生を評定できる地位にあって、学生が本当の意味で自由に意見を述べられるとは限らない。しかしながら、差別や道理に反する言動を容認すれば、その教師だけではなく、他の学生に対しても負の影響を及ぼす可能性がある。何が道理に反し、何が負であるかは個人の解釈にもよるが、少なくとも私が不正義であると感じることに対して、黙って見過ごすことはしたくない。企業の場合はよく分からないものの、理想論としては同じことが言える。


 ただし、意見を述べるという点に限れば、概ね達成されているとは思う。もっとも深刻なのは、その言葉が相手に直接届けられているか否かである。日本において、反論とはしばしば陰口やインターネット上の悪口の形をとる。ここには、言葉のやりとりを通じて、相互の考えの相違点を明かし、思考や行動の変化を起こすことを目指す姿勢が欠けていると言わざるを得ない。直接、言葉を差し向けることは、相手の感情を害するし、自分にとっても利益がないと考えて、事なかれ主義に走るのだろうか。だが、本人のいないところで触れ回るのは、自分自身が納得できていないことの表れであり、相手がその様子を見つけたらどう感じるか容易に想像がつく。必要なのは、対立を避ける訓練ではなく、対立が生まれたときにどのように伝えればよいかを考え、対立を解消するために試行錯誤することではないだろうか。


 みんなが相手に直接言葉を差し向けるようになったら、「和」が乱れ、社会は成り立たないといわれるかもしれない。確かにその通りかもしれない。だが、言いたいことを我慢し、陰でこそこそと侮蔑する人であふれる現状の社会における「和」を、懸命に守る必要がどこまであるのか疑問だ。どうせ我慢するのならば、徹底的に我慢して心の中にしまっておけばいいと思うし、我慢できないなら本人に直接告げるべきだと思う。こうした極端な考えは幼稚な発想とされ、社会性をわきまえていないとみなされても、私は私の信念を曲げるつもりはない。現状に文句を垂れながらしぶしぶ従うよりも、ジャックナイフのように鋭利な言葉が、お互いの間を行き来することによって、適切な言葉の使い方と距離感を学ぶ社会を望んでいる。そして、一人ひとりの言葉の蓄積が社会を構成していると信じている。だからこそ、私は現状の「和」を乱してでも、いや乱すつもりで、今日も言葉を発する。