MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

クリスマスに一人で行く教会と回想

クリスマスが1年で一番好きな日だ。書店でクリスマスカードをみかけるだけで幸せな気持ちになる。幼いときは、両親がごちそうとプレゼントを用意してくれて、家族団らんの一日を過ごした。今では、想像もつかないけれど幸せな時間だった。大学生になってからは、一人で過ごすクリスマスが多くなったものの、毎年ケーキやチキンを用意して、ささやかなディナーを楽しむことにしている。クリスチャンではないけれど教会にも行く。

 

教会にはたくさんの人がいて、みんなで歌を歌ったり、お話を聞いたりする。初めて教会を訪れた時は、勧誘されたらどうしよう、服装は質素な方がいいかなど悩んでいたけれど、特に気にする必要もなかった。基本的に誰でも歓迎してくれるし、一人で来ている人も多い。神父さんは信者ではない私にもお祈りをしてくれる。なんだか、それがとてもうれしい。ミサの後には、温かい飲み物やおしるこが振る舞われることもある。

 

それでも、やっぱり寂しさもある。誰かと一緒にいられたら、なんて思ってしまう。もし、将来、私にとって守りたくなるような家庭が出来たら、どんなに喧嘩したときでも、クリスマスだけは幸せに過ごせるようにしたい。出来るだけの愛情を注ぎたい。思い出はずっと残るから。私にとって、クリスマスは、かけがえのない大切な一日だから。今年は、どうやって過ごそうかな。

最近の投稿と今後の方向性について

こんにちは。

ブログを始めてもうすぐ1年になります。記事数も100を越え、見てくださる人もいて有難い限りです。

今日は、最近の記事の内容について弁明しようと思います。
このブログは、社会のなかでマイノリティー(少数派)の属性や価値観を持ち、生きづらさを感じている人々に、私の経験ではありますが、少しでも生きる希望を与えられればいいなという思いから始めたものです。ネガティブな記事もありますが、同じような思いをしている人の役に立てるかもしれないと思って、投稿しています。

しかし、最近、日常生活がうまくいっておらず、その苛立ちをブログにぶつけてしまい、普段なら控えるような攻撃的な表現を使うようになりました。嫌なことがあっても、具体的なことはブログに書けない場合が多く、なおさら憎しみが強調されてしまっています。

また、穏やかな表現よりも、少々手荒な表現の方が、今の私の思いをしっかり伝えられるのではないかとも感じています。やりきれない悔しさや昇華できない怒りも、ありのままに書いてみたい気持ちがあります。

このような経緯から、今後は攻撃的にみえる記事が一時的に増えると思います。一時的に、としたのは、いったん思っていることを全て吐き出してみたら、衝動も収まる感じがしているからです。

同意できない内容も多々出てくるとは思いますが、温かく見守っていただけるとうれしいです。
それでは。

 

P.S.


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博多駅でいただいたモツ鍋の写真です。一癖ある味のモツに、ネギとキャベツがいいアクセントになっています。九州観光の記事も更新したいですね。

ドラえもんの慰謝料支払機があったらいいのに 差別するなら金をくれ

ドラえもんひみつ道具が一つだけ手に入るとしたら何がいいだろう。どこでもドアやタイムマシンにも憧れるけど、今の私なら「イシャ料しはらい機」がぴったりだ。

 

作中では、のび太ジャイアンに殴られるたびに、慰謝料を受け取れる機械として登場する。慰謝料は、ジャイアンの所持金から支払われ、所持金が尽きると持ち物が自動的に売却されるという仕組みになっている。これを知ったのび太の同級生は、嬉々としてジャイアンに殴られるようになり、結局ジャイアンは無一文になってしまうというお話だ。

 

殴られてお金がもらえるなら、毎日のように降りかかる嫌な体験からもお金をもらうことが出来ればいいのにという思いで、この道具が手に入ればよいのにと言ってみたに過ぎないが、理不尽な出来事に意味が与えられることが何よりも大きな魅力だと思う。

 

私が生きている世界は、私が私であるという理由で、無数の不当な扱いを受けているのに、ほとんどの人が助けてくれない懲罰的な世界だと思っている。私の性別や容姿、雰囲気、考え方、その他たくさんの理由で、ひどいことを言われたり、体を叩かれたり、努力を否定されたりといった仕打ちが、毎日のように繰り返されている、こんな世界が正しいとは全く思えない。こんなに苦しいのに、その苦しみには何の意味もない。苦しんだ分だけ、楽しいことがあるなんて嘘だ。普通にしているだけで苦しい思いをするのだから、苦しみを避けるために、新しい人と出会うのをやめよう、人を信頼するのはやめよう、人生に期待しないでおこう、外に出ないでおこう、というように、どんどん消極的になるだけだ。

 

慰謝料支払い機があれば、嫌なことを言われたけどお金がもらえたということで、その出来事に意味を見出すことが出来る。容姿に対して罵倒されたのなら、その慰謝料でメイクを頑張るなり、整形するなりすればいい。下手な慰めよりも、物を言うのはお金だ。だいたい、なぜ被害者の私が、時間も心の余裕も奪われないといけないのだろう。加害者が、自分の発した言葉について、何時間も何日も何か月も悔やみ続けなければ割に合わないのに、どうせ実態は覚えてすらいないのがオチなんじゃないか。彼ら彼女らは、きっと思ったことを特に何も考えずに口に出しているだけだ。そして、何の罰も受けずに、のびのびと毎日を過ごしている。きっと、安心して帰れる場所も支えてくれる友達もいるに違いない。

 

嫌な経験を糧にして、その分人に優しくなれるといった発想の転換は、私がとる選択肢の一つであって、他の人から勧められて同意するものではない。子どもを殺された親に、同じことを言えるのだろうか。加害者に酷い目に合ってほしい、幸せな人たちが憎いと恨み言を述べる権利は、誰にも奪えない。嫌な思いをすればするほど、普通に生きていられる人たちが憎く思えて、他人に対する思いやりを失ってしまう。他人の幸福を素直に喜べなくなっていく。こんな世界なんてめちゃくちゃになってしまえばいい。みんな実は苦労しているとか、たまたま上手くいかなかっただけとか、それも私が考えに考えたうちにとりうる結論の一つであって、他の人から同意を強要されるものではない。最愛の人を殺された人に同じ言葉をかけられるだろうか。殺人と結びつけるのは極端だと言われるかもしれないけど、生きていく上での基本的な信頼感を破壊され、憎悪と悲嘆に身を持っていかれそうになっているのだから、いくら否定されても、その比喩を使い続けようと思う。なぜそんな目に遭うのか理解できず、その出来事に意味を与えることが出来ないという点においても、この比喩はぴったり当てはまる。

 

自分の境遇の意味も分からないし、意味を考える気にもなれず、ドラえもんが意味を与えてくれるわけでもない。

 

私が言いたいのは、私は何も悪くなくて、相手に100%に責任があり、苦しみを負うとすれば全て加害者の方だ、ということだ。誰がなんと言おうと、私はそう思う。だとすれば、「他人」のせいで「私」が苦しむなんて馬鹿らしいし、何一つ萎縮する必要もなくなってくる。ましてや、自分の命を大嫌いな「他人」のために捧げるわけにはいかない。お金をもらいたいはずなのに、私の幸福や命を支払うなんて、割に合わないもいいところだ。思い通りにならないことばかりでうんざりしているから、自分の行き先ぐらいは自分で決めたい。そんな絶望を明日に繋いでいく。

東大の学歴に基づく優越感、差別意識を批判します

 大学の居心地の悪さの一因に、選民意識、差別意識が蔓延していることがある。もちろん全員ではないし、他の大学でも多かれ少なかれみられることだが、批判されてしかるべきだと思う。キャンパスの雰囲気を変えるためには、黙っているだけではなく、意見を述べることが大切であり、私にはせっかくブログという媒体があるので、ここで主張を残しておきたい。

 もし、炎上して当局に呼び出されたら、その時は大学に対して思うことをまとめて陳情すればよいので、書いてみることにする。第一、これは、東大へのネガティブキャンペーンではなく、本来の社会的使命を果たして、真に大学の価値を高めるように呼び掛けるもので、本当に東大を貶めているのは、選民思想に浸り、差別を行っている人々だ。

 なお、情報源については、私が実際に見聞きした内容、他人からの伝聞、インターネット上での情報になる。あくまで主観に過ぎない点は、ご容赦願いたい。

 学歴も割りばしの袋から箸置きを作ることも同じ

 東大生であることは、単純には、東京大学の入試に合格し、所定の課程を履修しているに過ぎない。他の大学生なら、大学名が変わるだけで価値の優劣は存在しない。しかし、偏差値で最上位に序列づけられることで、「日本一賢い」だとか「優秀」というイメージが生まれる。また、その能力は、実際には受験の点数が一定以上であることに過ぎないのに、才能がある、努力家、人格者、人望があるという意味を帯びる。これらは、世間一般で受け入れられている考えだけに、東大生であることに優越感を抱くことは容易に想像される。入学後も、学歴による様々な恩恵を受けて、その優越感は維持、強化される。この優越感は、東大生ではない人々との比較によって成り立つものであり、差別の要素を必然的に含んでいる。

 気分が悪くなるので引用しないが、強制わいせつや性的暴行で逮捕された東大生たちの、被害者の人格を軽んじた供述や、テレビに出演する東大生タレントらの優越感に満ちた発言は、パフォーマンスでもなんでもなく、学内の雰囲気を象徴するものだと思う。

 学歴による優越感が悪質なのは、その差別が正当であると信じられていることにある。例えば、野球がうまい人が、野球の能力に優越感を覚え、自分より野球が下手な人を見下したとしても、野球をやっていない人からすれば、何も関係ない話である。そもそも競争に参加していないのだから。一方で、学歴の場合は、大学受験なら、大学を受験した全ての人たちが競争に参加したことになり、東大を受験したかに関係なく、ほとんどの人が東大より「下」の大学に入ったことにさせられる。全員が受験に等しく関心を持ち、等しく東大に入りたいと思い、等しい条件で競争しているという事実は存在しないにも関わらず。さらに、大学を受験しなかった人たちに至っては、多くの場合、競争に参加する能力がなかったとみなされ、不戦敗ともいえる位置づけを与えられる。だからこそ、人間の価値の尺度として、野球のうまさではなく学歴が使えるように錯覚させられる。学歴に興味がないといえば、負け惜しみのように受け取られる。同世代の中でトップ3000に入るぐらい野球がうまい人と、受験で高得点をとった人(≒定員3000人の東大生)のどちらが、社会で「評価」されるかということである。

 居酒屋で学生証を出したとき、成人式で地元に帰ったとき、難しい話が他大学で通じなかったとき、親戚に褒められたとき、東大トークに酔いしれるとき、その他、どんなに素朴で単純な優越感であったとしても、無自覚な差別意識に支えられているのではないだろうか。にもかかわらず、何の断りもなく、東大生であることへの優越感の表明が、共通言語のように繰り返されている状態は、決して望ましいものではない。

 では、どうすればよいのかということになるが、まずは一つひとつの言葉や感情の背後に、どのような思考回路が働いているのかに思いを巡らす必要がある。そうして行きつく先は、喜びの感情を封印することではない。学歴でも、スポーツでも、歌でも、イラストでも、割りばしの袋から箸置きを作ることでも同じように評価し、認め合うことである。すぐには変わらないだろうが、そんな社会になれば、どんなに素敵だろうかと思う。大学が、その先駆者となれば、新たな誇りを手にすることが出来るだろう。

それって私が悪いの 全部社会のせいだ

私が無責任で情緒不安定で怠慢だとして、その責任は私にあるのだろうか。全部社会のせいにしたくなる。私だって、自分の生きている価値を信じられるほど、安心して過ごせる環境さえあれば、もっといい性格になっていたはずだ。幼いときは、粘り強くて諦めないことを評価してもらえたときもあった。どれだけ嫌なことでも一区切りがつくまではやりとげる力があった。今は、ひとつでも不快なことがあったら全部が嫌になり、すぐにやめてしまう。急に休んだり、連絡がとれなくなったりすることが、どれほど周りに迷惑をかけ、信頼を失うのかは、もちろんわかっているけど、同じことを繰り返してしまう。他の人からは、もともと無責任な人間だと思われるし、自分でもそう思う。でも、そうなったのは私のせいじゃないって言いたい。

困難を乗り越えられた人には、過去の成功体験や周りのサポートや頼れる人がいたからこそ、最後まで諦めずに進めたのであって、救いのない状況が幾度ともなく繰り返されたら、どんな人だって努力することが馬鹿らしく思えてくるんじゃないだろうか。私にとって、諦めて逃げることは、これまでの人生から学んだ知恵になっている。私に悪いところがあるのなら、それは学習された結果であり、そういう風に教えてきたのは今の社会だ。社会に責任があることを、私ひとりの責任にしないでほしい。どんなに走ってもボールに追い付けなくて、やっと近づけたと思ったら、すっとかわされることの繰り返しだった体育の授業を思い出す。どれだけ頑張っても、チームに貢献できないからずっと走るだけ。ボールに触れないまま、ゲームが終わることは日常茶飯事。ずっと走っているだけだから、技術が上達するわけでもない。誰かが気にかけてくれるとすれば、チームの負けの責任を押し付けられるときぐらいだ。運動は大嫌いになり、もうスポーツに関連するものには関わらないようにしている。 その時は、運動が出来ない私が悪いと思っていた。けど、周りが同じぐらいの体力やレベルだったら、興味を持って取り組めたと思うし、教え方次第では運動が大好きになっていたかもしれない。私は、運動が嫌いなんかじゃなくて、嫌いにさせられたと言っていい。そうやって、いろんなものを嫌いになり、そして自分自身を嫌いになった。

無力感に打ちひしがれ、諦めが板につく。そんな経験を繰り返すことを成長と呼ぶのだろうか。私の苦しみに気づかない圧倒的多数の人間には、今までの失敗体験をVRで見てほしい。被害妄想と悪夢と現実が入れ混じった暗くて歪んだ世界を味わってほしい。私が経験した時間と同じだけ、何百回、何千回とみれば、真面目に頑張ることが馬鹿らしくなって、やる気がなくなると思う。普通に。

悪いのは、私じゃない。全部、社会のせいだ。

 

 

なんて、開き直れたらいいのに。