MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。ちょっと情緒不安定な東大生

目の前にある少数派<マイノリティー>の経験を見逃さない

感受性が鈍いと思っていた。フィクションの映画や小説で泣いたこともない。味方だと思えない人に対しては、共感できず、バッサリと切り捨ててしまうこともある。大災害が起きたときは、さすがに人の生命や財産が失われたことには悲しみを覚えるし、繰り返してはならないと思う。けれど、被災せずとも生活を変えたり、絆や地域の価値が見直したりした人も大勢いるはずなのに、わたしは結局何もしていないし、何かをやるつもりもなかった。

 

あまり他人に関心がないのかなと悩んでいたが、感受性の向きが違うだけだと最近になって気づいた。目の前に相手がいるとき、かつ相手が社会的に少数派だと思ったときに心を動かせられる。

 

例えば、大学進学を目指すある高校生と出会ったとき。雑談の中で、多くの食物アレルギーを持っていることを教えてくれた。アレルギーがあり、コンビニや外食を使えないため、弁当を持たせてくれる実家から通える範囲で大学を探しているという。あっけらかんと話してくれたが、何と答えていいのか分からなかった。 偏差値と学費、都会か地方かぐらいしか大学の選び方を知らなかったことが恥ずかしかった。

 

それから、食物アレルギーについて真剣に考えるようになった。アレルギーは時として生命に関わる事態を引き起こしうること、食物アレルギーの割合が増えていることを知り、スーパーやレストランでもアレルギー表示が欠かさず記されていることに気づいた。小麦粉アレルギーでも食べられるパンや卵アレルギーでも食べられるケーキを作るお店の情報もいつしか知るようになっていた。

 

大学の選び方についても、家庭の事情、本人や周囲の価値観、病気など、考えてもみれば色んな基準が存在する。浅はかだったなと思う。それは、別に「かわいそう」とか「助けたい」という話ではない。ただ、経験してきたもの、見えている世界が違うことに、<多数派>である私が気づいていなかったということだ。本当は気づいていたが、見て見ぬふりをしていたのかもしれない。食物アレルギーが存在すること自体は知識として知っていたが、現実を目の前で「告発」されたことで自分に関係のあることして初めて捉えられた。

 

他にも民族や人種のマイノリティーの問題に関心を向けるようになった出来事がある。社会人も交えた勉強会で知り合ったその人は在日朝鮮人3世だと自己紹介してくれた。外交や歴史を語るような場でもなかったので、特に意識することもなく、なぜか気にかけてくれる単に優しい人だなあという印象でしかなかった。ある時、他の人が日本人や日本国民という言葉を使って、意見を述べたことがあった。何てことはなく、意味としては日本に住んでいる私たちというニュアンスで、差別的な意図はなかった。その人が初参加で、その場に集まっている人のルーツなんて知る由もないのだから、日本で行われ日本語で会話される空間において、私たち=日本人・日本国民と語ることに違和感を覚えなかった。すると、しばらくしてから在日3世の方が先ほどの発言について言及した。口調はやんわりとして、穏やかなものだったが、自らのルーツを考えると日本人や日本国民、(彼ら彼女らの住む)日本という言葉が使われる度に、自分たちが除外されているような感じを抱くと言っていた。また、東京オリンピックに向けて盛り上がりを見せていた頃だったので、 日本人や日本という言葉、概念が熱狂のうちに強調される度に、怖さを感じるという。個別の歴史や外交問題については意見が分かれたとしても、ここにいる人は皆日本生まれ日本育ちで両親が日本人であるという前提を、少なくとも私が、暗黙のうちに受け入れていたことを突かれた気分だった。

 

だからといって、あらゆる感情や主張を全て正しいと肯定する必要もないと思うが、同質な人々しか想像できず、少数派に無頓着だったことには違いない。それから、外国にルーツがあったり、複雑なバックグラウンドを持っていたりする人が常にいるかもしれないと思い、決めつけないようになった。言葉については、他に妥当な表現が見つからないものの、長々しくても言い換えることもある。これも一つの出会いから大きく変わった例だ。

 

アレルギーにしても民族的なマイノリティーにしても一過性の出来事として片付けて、特に考えることなく、忘れてしまうことも出来たはずだ。もしくは、別の解決策を示したり、反論したりといった手段もとれるかもしれない。全ての主張を受け入れることは出来ないし、そこまで行くと自分の意思を失っているように思える。それでも、第三者として安全な立場から見過ごすことは嫌だったし、ずっと気になって離れなかった。正義感といえば、チープに聞こえるし、こんなことを書く地点で偽善者かつ自己満足なのかもしれないけれど、同じ経験をした人が全員同じように感じないとすれば、これも感受性の一つの形だと思う。

 

他にもたくさんの例があって、友人に精神障害があることを知ったときは、ちゃんとしてほしいと思うだけで無理解だったことを恥じたし、冗談でも病気をネタにすることはなくなった。不登校の人もリストカットした人も離婚した人もクリスチャンも身近にたくさんいる。

 

年末年始はホームレスの人をみかけることが多かった。思えば、大学周辺でも『BIG ISSUE』という雑誌を路上で売っている人がいる。荷車を引いてアルミ缶を集めている人がいる。今そこに確かに存在しているのに、見てみないふりをしていただけだった。それから、ネットで調べてみると、年末年始は役所が閉まるので、日雇いの仕事の斡旋や生活の支援が受けられず、ゴミの収集もないので換金できるアルミ缶の回収も出来ないと書かれていた。それで、各地域の公園に集まって、活動家の人たちが集団で炊き出しや衣服の配布を行っているという。今度は、炊き出しのボランティアに行ってみようと思っている。


学生のうちに、何でも経験しようとよく言われる。だけど、私にはお金も体力もそんなにない。行動力のある人たちと、どんどん経験の差が開いていくことを恐れていた。それなら、目の前の小さな世界から経験を見つける力を鍛えたい。足踏みしていてもいいから、今いるところから懸命に周囲を見渡せばいい。そして、余裕ができたら、こぼれおちる砂粒を一つも見逃そうとしない視野で広い世界を捉えて、経験も積みたい。

親御さん、受験生、大学生、ビジネスパーソン必見!東大生がやっている8つの習慣

タイトル、間違えていません。

いつもとテイストの違う記事を書いてみたくなったので、ライフハック系記事を投稿してみます。ユーモアが空回りして、キャラクターが崩壊している気がしますが、どんどん紹介していきますね。

他のサイトではおそらくみられないだろう、ここだけの情報をお楽しみください。最後までお付き合いいただければ、意図が伝わるかなと思います。

 

・まだ毎日寝てるの? 眠るのは2日に1回で十分

寝たいのになかなか寝られないときってありますよね。眠れる方法を試しても効果がない時は、もう起きちゃいます。眠気が出てくる5時ごろに30分ぐらい仮眠をとり、昼休みに寝て、休憩時間にも寝れば、なんとかなっています。自宅に帰ってきたら、すぐにベッドに潜り、翌日の明け方まで10時間以上眠ります。このローテションを、2日に1回のペースで回しています。ほぼ徹夜の日を乗り越えるために、眠気覚ましドリンクを飲む、つぼを押す、肌をつねる、目薬をさす、むせるほど辛い料理を食べるなどの対策を行っています。

 

起きないといけないときに、とりあえず飲むメガシャキ

メガシャキ 100ml×6本

メガシャキ 100ml×6本

 

 ジンジャー味の眠気覚ましドリンク。こういう種類のドリンクは、コーヒー風味だったり、栄養ドリンクは甘すぎたりするので、ちょうどいい。生姜は、体によさそうだし(?)。

 

・ストレスを感じたらお酒を飲もう ただしストロングに限る

現実逃避の何が悪いんでしょうか?気分よく酔うからこそ、翌日も頑張れるわけです。酔うために効率よく飲むには、アルコール1mlあたりに何円かかるか、コスパの計算が必須です。ストロング系缶チューハイは外せません。最近は、いろんな味が出ていておいしいです。

酔うことが大事なので、急いで飲みましょう。甘めのフレーバーにすれば、酒の肴なしでもジュース感覚でごくごく飲めます。

 

おすすめストロング

ストロングゼロより氷結ストロング派です。 

キリン 氷結ストロング ダブルりんご 350ml×24本
 

他にも季節限定で白桃&黄桃味もあり、そちらもおいしい。

 

 

・限界まで食べる

お腹が空いては集中力に欠けるし、ますます眠れなくなるので、我慢せずに食べちゃいます。ただでさえ日常生活に降りかかる苦しみに耐えているのに、その上なぜひもじい思いをしないといけないのか、と抗議したくなります。それで、たまに食べすぎで吐いちゃうんですけどね。そんなに頻繁じゃなければ吐いてもいいと思います。

 

・好きな時間に食べる&すぐに食べる

私は、ご飯を食べる時間を決めていません。お腹が空いたときに食べれば、それでいいじゃないでしょうか?一人ひとりの身体は違うのに、時間を定めて食べさせるのは、押し付けでしかありません。好きな時間に食べましょう。そうすると、食べる時間を確保するのが難しく思えますが、案ずることはありません。すぐに食べ切ることが出来れば、わずかな休憩時間やトイレに行くふりをして、食事を摂ることが可能です。目安としては、5分以内です。ポイントは、食事に集中すること、常に箸を動かし続けること、口いっぱいにほおばること、が重要です。栄養摂取のための時間と割り切って、味わいたい料理は時間に余裕のある時に食べましょう。

 

・料理の定番「さしすせそ」はもう古い 「給食当番」で個性を味わおう

みなさんが、冷蔵庫に常備しているのは、なんでしょうか?私は、キムチを常備しています。炒めるなら、豚肉にも野菜にも合いますし、スープに入れてもおいしい。そのまま食べるにも、調味料としても使える便利な食材です。

ちなみに、私は「さしすせそ」のうち、砂糖と酢と味噌は使いません。理由は、次の通りです。

砂糖…辛さを消してしまうから。料理は、辛いことが第一。

酢…臭いを受け付けないから。色も苦手。

味噌…見た目が好きじゃないから。見えないところで料理に使われている分には構わない。

 

これからの時代は、「給食当番」です。

「給食当番」とは

き…キムチ

う…味覇(ウェイパー…中華風調味料)

しょ…醤油

く…クエン酸(を多く含むレモン汁)

当番…豆板醬

無理やり感もありますが、刺激的な食生活になること間違いなしです。

 

せっかくなので、我が家の鉄板商品を紹介しておきましょう。

こくうまキムチ

 もう5年以上、愛用しているキムチ。国産の白菜と魚介のうまみが特徴で、辛いというよりは、旨辛という感じ。そこまで辛くないが、炒め物にするとマイルドになる。

 

味覇 

味覇(ウェイパー) 缶 250g

味覇(ウェイパー) 缶 250g

 

 パッケージが毒々しいが、中華なら何にでも合う万能調味料。

 

ポッカレモン

ポッカレモン100 450ml

ポッカレモン100 450ml

 

 唐揚げにレモンかけるタイプなので…。

 

・水道水を飲もう

家にいるときは、水道水を飲みます。塩素を気にしなければ、お茶と違って、沸かす手間もいりません。蛇口をひねるだけというお手軽さ。最初は抵抗がありますが、習慣になれば気にならなくなります。慣れれば、ミネラルウォーターを飲んだときに、特別感に浸ることが出来ます。

 

水道水は、amazonで売っていませんでした。

 

・冬将軍は友達 夏は冷房を求め、冬に活動しよう

暑いことは何もよくありません。汗をかけば、不快ですし、肌がかぶれる原因にもなります。我慢していたら、熱中症になります。体調を崩せば、よりお金がかかるので、冷房を使いましょう。適度な設定が大事です。冷え性対策も怠らず。冬は、着込めば何とかなるでしょう。クリスマスに、年末の大掃除、お正月、七草がゆ、バレンタインとイベントも盛りだくさんです。新しい年度の始まる4月からはお休みモードです。五月病かな…といえば6月ぐらいまでなら誤魔化せます。梅雨は梅雨ですし(?)、暑くなってきたら夏バテ、夏風邪と理由はたくさんあります。あながち嘘でもないのが、困りごとなんですけどね。

 

・パクリが世界を変える 真似してオリジナルを作ろう

この世界は、こうした方がいい、○○すべきといったライフハックやモラルで溢れていると日々感じます。その中には、参考になるアドバイスもありますが、否応なく押し付けられ、時として破ってはいけないルールになることもあります。私は私至上主義をとるので、気に入らないものは変えたい、少なくとも押し付けるのをやめてほしいと思います。しかし、真面目に真正面から戦いを挑むには、あまりにも劣勢ですし、そんなに自信もありません。だから「奇襲」を仕掛けたいと考えています。

 

哲学の議論に、社会のルールは、人々が言葉にして繰り返されることによって、維持・強化されていく、というものがあります。その中では、言葉を少しズレた意味で使うことが「攪乱」となり、ルールを変えていけるというアイデアがあります。

 

例えが変かもしれませんが、「替え歌」がまさに「攪乱」だと思います。

ふざけた「替え歌」を聴いてしまうと、元の曲を聴いているときにも思い出されてしまって、以前と同じようには聴けなくなることがありますよね。本来の歌詞ではない、空耳の歌詞を目にしたときも同様に、今度はそう歌っているようにしか聞こえなくなります。ポジティブな場合としては、カバーを聴いた後は、オリジナルならではの良さが感じやすくなるかもしれません。元の曲と戦うために作られたわけではありませんが、こんな風に「パクリ」ながら自分ならではの要素を入れていくことは確かに意味を及ぼすのではないでしょうか。

 

というわけで、この記事は「攪乱」、ささやかな「奇襲」を狙ってみた次第です。成功しているかは別ですが。書いてみたところ、いろいろと良くない点がたくさんありますし、多少は自覚していますが、こういう試みもたまにはよいかも、ですね。すっかり夜が明けてしまったので、これから仮眠をとろうと思います。おやすみなさい。

勉強万能説の呪縛 私はあなたに論破されるための存在ではない

勉強のモチベーションが低い(正しく言えば、低い時が多い)のは、「勉強したところで何も変わらない」という諦めがあるからだ。大学の勉強は、私の人生にとって何の意味もなく、決して私を助けてはくれないと思う。料理、ファッションやメイク術を教えてくれるなら嬉々として通うのに、なんて感じたりもする。

 

他にも、嫌になってしまうのは、学びに励んでいる自分自身が強く正当化されている点にある。教養主義とも表現できる。教養を積むことが推奨され、教養のある人が偉く、不完全な学びに基づく行動を良しとせず、ややもすれば冷笑するような風潮がある。意見を言うにしても、ある程度の知的水準を満たしていないと、そんなことを言う前に勉強した方がいいよ、あいつは無知を晒しているだけ、といった具合に。実学はすぐに使えなくなる、教養がある人の話には深みがあって面白い、コミュニケーションに必須であるといった言説が、因果関係が吟味されないまま、学ばない人に対する差別意識ともに生産されているように感じる。深みがあるというわりには、ものすごく狭量な価値観だと思う。

 

かつて大学生3人が途上国のスラム見学のためにクラウドファンディングを募り、バッシングを受けたことがある。批判を招いた原因は、費用に交通費が含まれていたこと、スラムに対して偏見的な見方が述べられていたことなどにある。私もこの企画を見たときに、自己満足な印象を受けたし、価値観の押し付けともいえる内容に、否定的な気持ちを抱いた。知識や経験のある人からすれば、アドバイスするまでもなく、一笑に付したくなったのも理解できるところがある。

 

しかし、完璧でなければ行動を起こしたり、支援を頼んだりしてはいけないというルールはない。西野亮廣さんの著書『新世界』で、この件について触れられているが、一時の感情で否定しまえば、今後の人生においてクラウドファンディングという選択肢を失うことになり、自分の人生の可能性を減らしてしまうことになるという。

もし、自分が同じような状況になれば、自らに完璧さが要求されることになる。本当にその企画が適切だったかは保留するにしても、批判の中には、不勉強な他者を冷笑したいという気持ちが混ざっていたのではないかと自戒の念も込めて、そう思う。勉強や努力を最大限行えば、他者に支援を頼んでいいという論理が、誰にとって有利なのかは、考えないといけない。

 

もっと言ってしまえば、行動を起こす以前の段階、自分の意見を述べることにすら、勉強を要求されてしまうのかもしれない。意見を言うと、不勉強なだけ、視野が狭い、こんなことも知らないなんて、というものから、不満だけじゃなくて建設的な対案を示したらという親身そうな「アドバイス」まで、いろいろ反応が返ってくる。けれども、論理的でなければ、知的でなければ、自分の考えたことを言ってはいけないというルールはどこにも存在しない。無知であることを開き直るのはどうかというのもあるけれど、誰もが勉強する機会を等しく与えられているわけではないから、意見を発する前提に勉強を課すことには反発を覚える。知識がなければ、何も言えずに黙り続けなければならず、「感情的」になっていて「論理的ではない」自分自身を罰さないといけないのだろうか。自分の感じたことや思ったことを表明することは、一部の頭のいい人の専売特許なのだろうか。

 

こういうわけで、私は、何か一つ発言するにも、すごく臆病になってしまった。勉強熱心な人の話は面白いというけど、知識を一方的にまくしたてる人にも多く出会ってきた。学会でもないのに、ちょっとした意見や感じたことを言ってみただけで、どうして徹底的に論破されないといけないのだろうと思う。また、知識の総量を上回ったり、相手を論破したりするために、勉強しているわけではない。この世界に存在する実際の苦しみに目を向けずに、大学にこもって学問に励むことを褒めるのは、驕りにしか見えず、全く心に響かなかった。

 

だったら、教養主義から抜け出そうというのが最近の考えで、不完全さにも寛容であろうとしている。そして、学問と行動を一致させたいとも思う。実践を伴わせようと心がけるようになった。実践といっても難しい場合もあるから、その場合は自分ごとにあてはめて考えることにする。こうすることで、自分や周囲の状況を何か変えられるかもしれないと思って、そのヒントを探すつもりで勉強できるようになった。

 

物騒な例えになるが、私にとって、学問は、戦うための武器なのかもしれない。強力な武器を持っていれば、敵に襲われても、自分の命を守ることができる。素手で何百回、何千回殴っても壊れなかった城壁でも、たった数発の投石器で打ち壊されることもあるだろう。しかし、優れた武器を手にしていても、使い方が分からなければ、もしくは戦う気力がそもそも無ければ、実戦では役に立たない。逆に、何も持たずに血の気盛んに突撃するだけでも、集中砲火を浴びてしまう。大事なのは、武器と武器を使うための条件が揃っていることである。

 

興味のない武器のコレクションは、飾っているだけならただのモノでしかない。自分の身を守るために役に立った時、その武器は私の人生にとって、意味のあるものに変わる。押し付けられた見方にしぶしぶ従うぐらいなら、そんな思い込みに満ちた自己正当化もあっていいんじゃないだろうか。

努力主義の呪いとガンジーの氷山

私が存在し続けるためには、自分自身の価値を証明しないといけないと思っていた。家庭でも、学校でも、ずっとそうだった。

人の役に立つ人間であることを証明しないといけない。

周りの人よりも優れた人間であることを証明しないといけない。

自由や幸福は何もしなければ手に入らず、競争に勝つことで与えられるご褒美である。

その競争に敗れた者は、自分自身の価値を証明できていないのだから、それ相応の仕打ちを受けても仕方がない。

 

この考え方には、感謝もしている。たとえ不安定で毎日やりきれない思いをしていたとしても、努力さえすれば、いつか未来に希望が訪れるというメッセージだったからである。勇気を与えてくれる言葉ですらあった。

 

しかし、今では、同意できない言葉になった。というか、無数にある価値観のうちの一つでしかないと思うようになった。世界共通の原理でもないし、全員が信じないといけないものでもない。信じたい人は信じればいいけど、その言葉によって、自分の行動や思考が縛られてしまうなら、「呪い」でしかない。そんな呪いによって、自分や大切な人が傷つくのは見たくない。

 

じゃあ、今の社会が「みんなちがって、みんないい」ように出来ているから、安心して怠けよう!と呼びかけることは、あまりにも無責任だし、現実にも合っていない。努力ができることや能力が高いことが、生きやすさに繋がることは否定しがたい。社会が変わる感じもしない。綺麗ごとに惑わされるよりも、残酷なメッセージを信じる方がよいのかもしれないとすら思えてくる。

 

けれど、呪いの言葉を語り続いていく必要なんてない。現実はこうかもしれないけれど、私はおかしいと思っている、変わっていくべきだと信じている、というスタンスでよいのだと気付いた。これまでの社会で信じられてきたことを、ご丁寧に引き継ぎ、その価値観を存続させるために生きていく義理なんてどこにもないのだから。呪いの被害者であっても、加害者になろうとは思わない。自分の価値や可能性を他人に委ねることを支持しないのは確かであり、もし面従腹背にならざると得ないとしても、心の中まで明け渡したわけではない。信じたくない呪いを無理やり信じ込もうとして、呪術師の一員になろうと躍起になることとは、決定的に異なる。

 

心の底で割り切れない思いを抱き、葛藤することは、最終的には社会を変えてしまうほどの力にもなりうるとも思う。先日、『ガンジーの氷山』という話を聞いた。平和運動を氷山に例えたもので、氷山の先端は、大行進といった実際に社会を変えていく実感のある行動があてはまる。しかし、氷山は先端だけなら海を漂う小さな氷の欠片でしかない。氷山の先端の下には、小さな個別の取り組みがそれを支えている。ただし、これも水面上で見えている範囲でしかなく、氷山全体からすれば、ほんの一部分でしかない。では、水面下にある大きな部分は、何にあたるかといえば、悩んだり、自問自答したりする過程の中で、価値観や心のあり方が変わっていく「自己浄化」だという。この話は、納得しえない出来事に対して、行動を起こせなくても、考えるだけで、よりよい方向に未来を変えていけるという意味を与えてくれたように思えた。これも、不満に思うことがあるなら行動すべきだ!という言葉に縛られていたということなのかもしれない。行動しないのなら不満に思ってはいけないというルールはどこにもない。

 

この話も、「呪い」の言葉と同じく、信じることは誰にも強制されないものだ。ただ、何を信じるか、何を信じたいか、を決める権利は私自身にある。

進振り(進学選択)の点数にこだわりつづける大学

東大生としゃべるときに話題に困ったら、第二外国語進振りの話さえしておけば、初対面でも何も臆することはない。

 

進振りとは、正しくは進学選択といい、大学2年生の時に、大学3、4年をどの学部学科に進学するか決められるシステムである。1、2年生は全員が教養学部に所属し、学問を幅広く学んでから、それぞれの専門に進むという仕組みになっている。

 

だから、幅広い教養を身に付けられたり、様々な学問に触れてから専攻を選べたり、といったメリットがある一方で、その分、専門を学ぶ期間が短くなるというデメリットがあるとよく言われている。

 

しかし、一番の問題は、進める学部学科が、これまで履修した科目の成績の平均点によって基本的に選別されることにある。人気なところは、要求される成績も高くなるし、定員を下回るようなところは、簡単に進める。要するに、受験と同じ仕組みが働いている。

 

それで大学生が勉強に励むならよいと思う人もいるだろうが、点数が高いことを良いとみなす文化が作られていることの弊害は意外に大きい。受験勉強が終わっても、点数によって序列をつけて、場合によっては持て囃したり見下したりといったことが横行している。画一的な基準を誰しもにあてはめることが本当によいことなのだろうか?平均点が低いといっても、特定の科目では突出した成績かもしれないし、履修科目以外の自主的な勉強を頑張っているのかもしれない。課外活動に熱中するのも、惰眠をむさぼり、遊び呆けるのも、またライフスタイルの一つだろう。

 

所属を尋ねられて、学部や専攻を言えば、「点数が高いところだよね」とか「教養過程のときに頑張ったんだね」と言った言葉が返ってくる様子を何回も見たことがある。点数で人の努力を評価する風土が根付いている。褒められる人がいれば、貶される人もいる。点数が低くても行きやすい学科は知れわたっているから、学科を言うだけで見下しの対象になる。そんなことは本人もわかっているので、「本当は◯◯に行きたかったんだけど勉強サボっちゃって~」と笑いに変えることで予防線を張る。

 

点数がいいことは、地頭がよいこと、努力ができることを表し、価値がある人間であることを知らしめる効果がある。

 

そこで思い出したのが、この記事。

blog.tinect.jp

東大出身者にとって、出会った相手の知能がどれだけのものかということが、非常に重要だからだ。

というのも、彼らは相手の知能の程度によって、接し方を変えようとしているのである。

そこで知能があると判断した者には丁重に接し、そうでないと判断した者にはそれなりに接するのだ。

 

この記事に書いてあることは、東大生同士でも普通に行われている。その時に、進振りの点数が参考にされているのは言うまでもない。頭がいいことはいいこと、頭が悪いことは悪いことなのだ。

 

永遠に上を目指して走り続けることが、そんなに美しくて正しいのだろうか?ゆっくり自分のペースで走ってもいいし、別の方向に行ってもいいし、立ち止まって風景画を描いてもいいし、家に帰ってゲームをしてもいいはずだ。少なくとも他人に強制される筋合いはない。私の価値は私が決める。