MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

アトピーがコンプレックス 手を見せたくなかった

 自分の見た目も性格も欠点ばかりだけれど、アトピー性皮膚炎は特にコンプレックスだった。大学進学後には、普通の人よりも肌荒れしやすいぐらいまでよくなったが、外見に対する恐怖は、アトピーがほぼ完治した今でも引きずっている。あのかゆみと爛れたような醜悪な手は二度と思い出したくない。

 

 ステロイドを使用した治療には、幼かったこともあり副作用の心配はしていなかったが、医師の指導通り、毎日塗り続けても少しもよくならないことに苛立った。診察のたびにきちんと薬を使っているのか疑われ、これ以上強い薬は出せないと言われた。治る希望もない中、不信感だけが残った。

 

 常にかゆみとの戦いだったが、それ以上に周囲の無理解が辛かった。祖母は、ステロイドは危険だから使うなといっていた。小学校の先生は、アトピーになるのは家庭環境のせいだと言い、インターネット上には怪しい民間療法があふれていた。私がアトピーということを知らずに、差別的なことをいう人もいた。不衛生で気持ち悪いことなんて、本人が一番分かっているのに。

 

 他人に炎症を見られたくなかったので、いつも長袖で手のひらは隠すようにしていた。じゃんけんはいつもグーを出していたし、手相診断が同級生たちの間で流行ったときも、手相をみせることを頑なに拒んだ。それでも、ふと油断した瞬間に手をみられ、見てはいけない怪物を見たかのような嫌悪感のこもった表情を浮かべられたことは忘れられない。

 

 同じアトピーに罹っている人なら理解してもらえるかと思ったが、答えは否だった。その人いわく、掻くのを我慢すればよくなり、我慢できないのは意思が弱いからだといわれた。実際どうなのかは分からないが、そんなことでよくなるなら既に治っているはずだし、何より今の自分の苦しみが、とるに足らないことのように扱われて悔しかった。

 

 なぜ自分だけがこんな目にあわないといけないのか、何度も自問自答した。聖書のヨブ記を読んだとき、まるで自分のようだと感じた。アトピーがより重症の方に比べれば、私は軽いほうだ。それなら恵まれているかもしれない。それでも、世の中の大半の人はアトピーとは無縁だ。少し肌荒れしたぐらいで騒ぐほど呑気だ。彼ら彼女らが、そんな些細なことでコンプレックスを抱くなら、アトピーの人が恋愛するなど夢のまた夢だ。

 

 結局、どんな結論に至ったかは忘れてしまった。今は毎日、薬を塗り、汗をかいたらすぐに拭き、手袋をして眠る生活を続けていて、小康状態だ。もちろん、同じことをしていても治りにくい方はいると思う。だから、アトピーに今も苦しんでいる人にかけられる言葉は見つからない。けれど、アトピーの苦しみは単に症状の苦しみだけではなく、他者から与えられる苦しみがあると実感したからこそ、後者を軽減することが出来たらいいなと思う。インターネットの片隅から、もっと理解ある人が増えればと願うばかりだ。

ネガティブを観察する

 毎日、ポジティブに生きられたら。不安や心配、妬みや恨みから無縁の生活。そこまでいかなくとも、常に上昇志向で失敗に囚われない生き方はかっこいい。ネガティブなことばかり考えていると、ネガティブな性格になり、不幸を引き寄せている気もする。こういうわけで、ポジティブに生きようと努力してみたことがある。


 不安が浮かんできたら、必死にかき消す。物事の肯定的な側面のみに注目する。ポジティブな生き方を指南する本を読みながら、書かれている通り、思考からネガティブを追い出した。しかし、追い出したそばからネガティブが次々と現れ、逆にポジティブを追いやってしまうのだ。被害妄想も普段の調子を取り戻し、ストレスがたまる一方で、そのストレスを感じている自分も否定すべきものとして、気づけば強迫観念が脳内を満たしていた。


 ポジティブに生きることを願っていたのに、そこにいたのは、ポジティブに生きなければならないという強迫観念に支配されたネガティブな自分だった。引き寄せの法則というのが存在するなら、不幸に浸ることは不幸を呼び込むだけだが、もはやどうすればポジティブになれるのか、まったく分からなかった。


 そこで、ネガティブを敵として無理やり抑え込むのではなく、観察してみることにした。外から思考を眺めるような感覚で、「人に会いたくない」「明日が憂鬱」「誰にも理解してもらえない」といった心に浮かぶ事象を観察する。そこに、価値判断は存在しない。川の流れをみつめるように、ただそこにあるものとして眺めるだけだ。気持ちがあふれてきたら、自分の思考がネガティブになっていることを自覚しつつ、思う存分不幸に浸る。ポジティブな思考にも同じように接する。思考が浮かぶにまかせる。


 すると、ネガティブもポジティブもそれ自体は単なる思考に過ぎず、それがいいとか、悪いとか価値判断を加えているのは人間なのだということに気づいた。全ては自分の中で作り出された感情に過ぎず、外部の刺激はきっかけになれど、感情自体が与えられるわけではない。楽しい、うれしい、辛い、かなしいといった気持ちは自分が生み出したものなのだ。どんな強い気持ちも、24時間365日、同じ強さで持続することはない。全ては変わりゆく。これが思考を観察したことで得られた結論だ。


 また、物事の解釈は多様であり、一概に善悪を決めつけられないこともわかった。例えば、劣等感は本人のみならず、時に嫉妬という形で他人を傷つけるという意味では悪かもしれない。一方で、劣等感が人を成長させ、他人の役に立つことを成し遂げることに資する可能性もある。ネガティブなことの中にもポジティブな要素はあり、ポジティブなことの中にもネガティブな要素があるのだ。

 万人に適用できるとは思わないが、選択肢の一つとして観察を心にとめてもらえればと思う。

 

この記事は、ヘッセの『シッダールタ』を私なりに解釈して感じたことを書きました。文学作品としても楽しめるので、お気に召せば図書館で借りてみてくださいね。

 

シッダールタ (新潮文庫)

シッダールタ (新潮文庫)

 

 

 

体育嫌いを克服しなかった結果

 この世界は嫌いなものにあふれている。この経験が役に立つとしたら、ブログのネタには困らないことぐらいだ。今日は、体育嫌いについて書く。小中高大と体育を経験したが、一度も楽しいと思うことなく終わってしまった。もう二度と体育を学校で教わることはなく、ついぞ好きになれなかったのが心残りである。

 

 もともと、体を動かすのが好きではなかった。外で遊ぶぐらいなら教室で本を読んでいたい、そんなクラスに一人はいるような小学生だった。体格が小さかった上に、運動のセンスも壊滅的だったので、自分が下位になるゲームにわざわざ参加したいとは思えなかったのだろう。走らせては最下位になるし、接触を伴うスポーツは当然痛みを感じるし、汗をかくのも不衛生だ。跳び箱も要領がつかめず、ほとんど飛べなかった。走り高飛びは、用意されていた最低の高さの棒を飛び越えることが出来ず成績をつけられないので、私だけゴムで作られたラインを越えることで対処してもらった。ドッチボールやバレーボールはボールが怖いし、当てられると痛いので、逃げ惑うばかりだった。

 

 それだけなら、まだよかったかもしれない。数学も不得意だったから、苦手教科が一つ増えるぐらいでなんてことはない。体育の難しいところは、他の人がみている前でやらされたり、チームプレイであったりすることだ。私がいると、チームの足をひっぱってしまう。存在意義はなく、迷惑をかけるだけだった。実際、私の入ったチームはよく負けていた。体育の時間中はクラスメイトも興奮していて、失敗するとすぐに怒られるし、時には手を出されることもあった。また、体の動きをうまくコントロールできないせいか、他人からみると滑稽にみえるらしく、嘲笑されることも多かった。痛いし、怖いし、恥ずかしいし、なぜ自分だけが上手くやれないのだろう、みんなにどう思われているのだろう、馬鹿にされているよな、思えばいつもそうだった、というように、体育の時間中、過去の記憶が蘇ってきて辛い気持ちになり、ぼーっとしているので、やはりまた怒られるという散々な始末だった。

 

 そんな私だったが、高校に入って適応する道を一つ見つけた。それは、授業を休むということだ。体調が悪いときは、無理せず休むようになった。でも、それだけでは限られた回数しか休めないので、体操服を忘れたという口実をよく使った。無意識に嫌がっているのか本当に忘れてしまうことが多かったが、通学中に気づいても取りに帰らないことにした。家を出た瞬間に忘れたことに気が付いても、そのまま学校に行く。教師に休むことを告げる瞬間は、確かに申し訳ない気持ちを表現しないといけない。でも、一瞬さえ我慢すれば1コマ休むことが出来るのだ。休みまくると成績は下がるが、頑張って出席していたときから低い点数をつけられていたので、心配するほどのことでもなかった。

 

 東大に来れば、勉強が得意な分運動は苦手な人が多いのかなと思っていたけど、期待は外れた。私の運動神経は相当低いらしく、ここでも最下位レベルだった。必修なので仕方なく、前期は卓球を選択した。個人戦なら周りの人に迷惑をかけなくてすむし、体をあまり動かさないイメージがあったからだ。温泉上がりに気楽できるようなスポーツという先入観もあった。これなら自分でもできるのではないか、そんあ淡い期待を抱いて、タ級場に向かった。でも、これが意外に難しかったのだ。ボールをラケットにあてることがこんなに難しいとは思わず、その上あてたボールが相手の陣地内に落とす技術が求められた。しかも、練習は班単位で、指導は同じ班の人同士で行っていたため、卓球経験者の人には何回も同じ説明を繰り返させることになり、私より少し上手なだけの人に上から目線でアドバイスを受けることも情けなく、不甲斐ない自分に腹が立った。あまりに下手なので、教員と1対1の特別な練習をした。頑張ろうとする意志が評価されたのか、成績は良かったが、毎週、体育館に向かう足取りが重かったことは鮮明に覚えている。

 

 後期は、時間割の関係で種目が一つしか選べなかったので、陸上を自動的に履修することになった。家から駅まで歩くだけで疲れるのに、陸上なんて出来るわけがないと思いながら、しぶしぶグラウンドに向かった。だが、救いはあった。まず、陸上と銘打っておきながら、やることはグラウンドを周回するだけだったこと。ハードル走や砲丸投げのような技術は要らないのだ。しかも、リレーのように集団競技ではない。さらに、自分のペースでやればいいとも言ってくれた。走るといっても、一コマずっと走り続けることは出来ないから、歩いてもいいということだった。適宜、水分補給や休憩もしていいといわれたので、ずっと歩き続けて、疲れたら休むということを繰り返した。すると、意外に歩けることに気が付いた。最初は1コマ4km程度だったが、走ることにも挑戦して、最終的には最高で15kmに達した。頑張って走った日は疲れたが、教員に頑張ったなと褒められて嬉しかった。体育で褒められたのは、これが初めてだったかもしれない。

 

 今もスポーツは全くしていない。が、散歩が日課に加わった。都会の街並みをながめながら散歩するとわくわくするし、考えていたことが整理されて、頭の中がすっきりする。歩数計のアプリをスマートフォンにいれて、一日どれぐらい歩いたか可視化すると、頑張りが目にみえてうれしい。体育嫌いは運動嫌いになり、克服できていないけれど、歩くことは続けたい。嫌いなことは嫌いなままにしておく。そうすれば、いつか他の運動も、何かの巡り合わせで、好きになるかもしれないから。

あいさつが苦手

 「おはようございます」その一言が重い。子どもの時から、あいさつが苦手だった。家族にも同級生にも先生にも自発的には挨拶しなかった。朝は地獄だ。起きたばかりで眠くてたまらないし、代り映えのしない辛いだけの一日が始まるという絶望的な朝に、大声でおはようと能天気に言われると憎悪が湧き上がってくる。朝というだけで不機嫌なのだから静かにしてほしい。

 

 あいさつが出来ないことは、この社会において間違いなく不利だ。あいさつをしなければ、社会不適合者扱いだ。小学校では、“あいさつ運動”なる恐ろしく全体主義的な統制が展開されていた。朝早くから校門に立ち、続々とやってくる生徒達にひたすらあいさつをするというものである。やりたいか否かに関わらず、強制参加だ。狂気だったとしか思えない。

 

 仮に、あいさつは嫌でもすることにしよう。それでも、今でも納得していないのは、先生から「あいさつをすると気分がいいよ」と言われたことだ。「おはようございます」と無理やり言わされることのどこに気持ちよさを感じられるというのか。あいにくマゾヒストではないので、気持ちいいとは感じられなかった。逆らう度胸もない小心者なので、小学生の時は従っていたが、内面まで決めつけるのはやりすぎだと思う。何に快感を覚えるかまで上位者が決めるなんて、それこそ全体主義めいて聞こえる。

 

 それから、もう10年以上経つ。さすがに目上の人にはあいさつするようになったし、昔ほどあいさつするのが苦手なわけでもない。あいさつ嫌いは克服されたのかもしれない。でも、自分からあいさつしたがらないことと、声が小さいのは相変わらずだ。特に朝のあいさつは本当に苦手だ。それでも、今いるところは体育会系ではないので、あいさつだけを理由に怒られたことはない。誰も挨拶しない学校や会社は、不気味だろうか。見てみたい気もする。

 

 あいさつに関する自分の欠点も開き直っていて、矯正すべきだとは思っていない。誰かに怒られたら、気にしようかなぐらいの心持ちだ。あいさつはあまりしない代わりに、「ありがとう」と「ごめんなさい」をきちんといえると自負しているので見逃してほしい。あいさつが出来ないなんて、ろくでもない大人だが、運よく今日も生きられている。あいさつが苦手でも大人になれると知っていたら、小学生の自分ももう少し楽に生きられたのだろうか。

 

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ブログに批判をいただきました

 本ブログに対する批判を頂戴しました。正確にいえば、ブログの記事についての批判的なコメントをインターネット上で見つけました。今回はそのことに対する感想とこれからの方向性について書きます。

 

 まず感じたのは「仕方がない」のかなということです。おかげさまで、メンヘラ.jpへの掲載以降、アクセスが増えました。記事が多くの人の目に触れられた結果、肯定的な反応を寄せてくださる方が出てきた一方で、一部の方には否定的な気持ちを抱かせることになりました。何かを発信する以上、全ての人を満足させることは困難です。このブログは私自身のネガティブな性格や過去の経験を綴っており、なおさら物議を醸しうる内容だと思います。その意味で、批判的なコメントをされる方がいるのも仕方がないと感じました。

 

 その上で、コメントをじっくり拝見しました。コメントの詳細な紹介は控えます。が、被害妄想が激しいという指摘は尤もであり、確かに反省が必要だと思います。けれども、私の人格や将来性を決めつける部分は、納得出来ませんでした。と同時に、記事の趣旨がうまく伝わっていないとも感じました。正直、最初は批判されたことで感情的になっていたのですが、コメントの中には私の課題を発見させてくれる要素もありました。だからこそ、もっと分かりやすく、より多くの人の役に立つ記事を書いていきたいと気持ちを新たにしました。

 

 そして、このブログをご覧になっている画面の向こうの皆様の存在も忘れてはならないと再認識しました。どういう動機でお読みいただいているのかはわかりませんが、ブログが誰かの役に立っていると信じ、ブログを続けます。感性が他の人と異なっていても、被害妄想を持っていても、生きづらさを抱えていても、肯定できる世界を作ることに微力ながら貢献していきます。サイト名で少数派を標榜する以上、多数派の価値観による批判に屈することは許されないでしょう。みなさんの存在が支えになっています。いつもありがとうございます。今回もお読みいただきありがとうございました。

 

死にたいが言えなかった

 死にたい時に死にたいというのは意外と難しい。私は言えなかった。グーグルの検索窓になら打ち込める。だけど、人に話したりSNSに書いたりすることは、躊躇われて出来なかった。死にたいという言葉は、他の言葉より重い。この4文字は切迫した訴えであり、文字通り生死に関わる言葉だ。簡単に口にできる言葉ではない。


 精神科医との診察でも言えなかった。生きづらい、憂鬱な気分であると伝えることはできたが、死にたいと考えていることはずっと言えなかった。時間があれば自殺する方法を探し、家にある薬の量を計算し、駅や国道で飛び込みたい衝動を寸前の所でこらえていた時でさえ、ついぞ死にたいとは言えなかった。深刻性を分かってもらえず、効果が軽い薬を処方され続けた。今度こそ診察で言おうと思っていても、喉で言葉が詰まり、結局言えなかった。もし、死にたいといって真剣に聞いてもらえなかったらどうしよう、そんな恐怖もあっただろう。


 死にたさを取り扱う医療の現場でさえ話せないのだから、友だちや知人にも言えるわけがなかった。ネガティブなことでさえ言わないようにしていたが、ふとした拍子に「疲れた」「毎日に意味を感じられない」という言葉が喉をついて出てしまった。周りの人は大丈夫かと聞いてくれたけれど、そう聞かれたら大丈夫と答えるしかない。気を使わせるのが申し訳なくて、へらへら笑ってネガティブさを必死にかき消す。こうして、誰にも言えないまま死にたさを抱えていた。


 自殺する方法を探していたときに、自殺予防の団体のサイトを見つけた。死んではいけませんと言われたところで、死にたい気持ちは少しも変わらないものの、コーヒーハウスが近くで開かれていることをしった。コーヒーハウスとは、コーヒーを片手に、生きづらさを抱えた人が語り合う場のことだ。行ってみると、新参者で参加者の中でも若かったことから、よく話を聞いてくれた。死にたいという言葉はどうしても出てこなかったが、それぐらい苦しみを抱えていることは表現できるようになった。その時ばかりは、普段飲めないコーヒーも飲むことが出来た。


 そこからしばらく後に休学した。休学してから、自分の弱みを表現することにも躊躇いが少なくなった。無理をして気丈に振舞っても、頑張り続けることは不可能で、疲れてしまうだけなので、出来ないことは出来ないということにした。死にたい時は、「申し訳ないですが、今は○○が出来る状態ではないので休ませてほしいです」と素直に言った。死にたいという言葉はやっぱり重いし、使っていると本当にそういう気持ちになりそうで怖くもあるので、使いにくい。だったら、別の言葉で表現すればいいし、心配されることも必要だと思うようになった。ネガティブなことを言うことで、離れていく人がいるとしても、それは仕方がないことだと思う。他の人より気持ちに弱いところがあるのは否定しがたい事実なのだから、無理して付き合ったところで苦しいだけだ。


 精神科の診察では、さすがにきちんと状況を伝えないといけないので、その時は希死念慮と言うようにしている。「キシネンリョがあります」と暗号のように言えば、少しは死のイメージから離れられるからだ。あとは、お医者さんが質問してくれることに対して、返答するだけなので、一から死にたいというよりは言いやすい。もはや気持ちの問題かもしれないが、気持ちの問題は大事だ。

 

 結局、死にたいと言えずに、時々死にたいと思いながら、死ねずに、今日も生きている。

バカでもメンヘラでも東大に合格した

 東大に合格してもそんなに楽しい生活が待ち受けているわけではないけれど、もし東大に行きたいという気持ちが少しでもあるのに、自分の能力を見限って諦めるとしたら、こんなにもったいない話はないと思う。


 高校生の時は、「偏差値が〇〇でも東大に合格できるか」「両親が高卒なら旧帝大に合格するのは難しいか」というインターネット上の質問サイトをみて、よく不安になっていた。個別の個人の能力は知る由もないが、少なくとも試験直前でもない限り、挑戦してみる価値はあると今なら言える。もし、あの時、100点満点の定期考査で2点をとるぐらいバカなのだから東大なんて目指しても惨めなだけだと諦めていたら、今の私はない。


 勉強しなくてはいけないという思いだけは人並みにあるくせに、授業を理解せず、テスト前はネットサーフィンをするような典型的な劣等生だったので、私が東大を目指すといったところで誰も応援してくれなかった。当時の一番の友人でさえ、さすがに無理だろうと思っていたことを合格発表の後で聞いた。


 学校の教師には、無理だとは直接いわれなかったが(そもそも東大受験のことは隠していたので)、他の志望校を考えることを勧められた。はっきりわかったのは、誰にも期待されていないということだ。どうせ、今に失敗するから見ていろとでも思われていたかもしれない。だったら、そもそも教師なんて信用していなかったし、東大に連れて行ってくれるほどの実力を持つ人もいないと思ったので、自分だけを信じることにした。


 英単語は発音しながら書きなぐって暗記、世界史は教科書と授業で学んだことを、友だちに授業内容を教えることで、ストーリーとして暗記していった。数学はパターンゲームだと思い、問題と解答のパターンを覚えた。他の教科の暗記すべきことは、ひたすらに裏紙に書きなぐった。


 成績があがるにつれて、周りの反応は劇的に変わっていた。同級生たちを50人、100人、150人と追い抜いて行った。不安なことも憎しみもあふれ、泣いてしまう日もあったが、東大に入れば全てが報われると信じて勉強し続けた。受験期のエピソードは、下の記事にまとめてある。

 

myminority.hatenablog.com

 


 合格発表の後、高校に登校すると、担任はもちろん、あまり話したことのない教師にも褒められた。同級生もいたく驚いていた様子だった。うれしい気持ちもしたが、簡単に手のひらを反す人間のおぞましさにぞっとした。


 それでも東大に合格したことには変わりない。バカでもメンヘラでも東大に合格できたのだ。入学後、同級生をみていると、幼い時から恵まれた教育環境におかれて、比較的裕福な人が多い。けれど、それはあくまで多数派がそうであるということであって、受験を諦める理由にはならないと思う。


 東大に合格しても、素行で頭の悪さを露呈させてしまったり、精神を病んで休学したりとあまり変わってもいない部分もあるが、勉強は刺激的で楽しいし、何より自信がついた。自分自身に失望するだけの毎日が変わった。希望が見えた。


 受験に限らず、大きなことに挑もうとすると、どこからから否定的な言葉が聞こえてくるけれど、そんな人たちの言葉に耳を傾ける必要はない。他人の失敗を喜ぶ人、成功に嫉妬する人は少なからずいるが、あなたが幸福になることを邪魔することは出来ない。周りの人は往々にして無責任で、自分の人生を代わりに生きてくれるわけではない。自分の人生を生きるのは自分だけなのだから、やりたいことがあるならやってみるだけの価値はあるのではないかと思うのだが、いかがだろうか。