MY MINORITY

不器用ですが暇つぶしになれば。双極性障害で東大在学中です。

誰かのために死ぬなら自分のために生きる

 ここに来て、ずっとセクシャリティーのことで悩んでいる。ブログを始めたときに書いた文章『MYマイノリティー宣言』を見返すと、今となっては同意できない言葉が載っている。マイノリティーがあるが故の苦労を、貴重な経験として昇華し、人生の原動力に出来たら、本当に幸せなことだと思う。そのときはそう思っていた。

 

 でも、もしマジョリティーであれば、味わうことがなかった苦しみを受けることに、肯定的な意味を見出すことが出来なくなってきた。他人の人生を代わりに生きることは不可能だけど、そういう選択肢があるのなら、今のままを望む確信はない。

 

 もちろん、苦しみの全てが無駄だったとは思っていない。勉強にも人間関係にも間違いなく生かされたし、セクシャルマイノリティーについて具体的に行動を実行したこともあるし、これからもマイノリティーとしての視点を大切にしていくつもりだ。

 

 問題は、それが積極的に生きる意志に繋がらなくなってきたということにある。自分がマイノリティーでなければ、そんな活動なんてやっていないだろうし、活動が苦しみを凌駕するほど楽しいわけでもない。ましてや、マイノリティーでよかったとは絶対に言えない。

 

 こういうことを毎日、堂々巡りで考えている。しかし、やらなければならないこともたくさんあり、いつまでも悩んでいるわけにもいかない。しょうがいないので、朝に扉を開けて外に出てから、夜に帰宅して扉を閉めるまでの間は、そのことを考えないように過ごしている。目的意識を持って、効率よく課題をこなしていく。とにかく集中して取り組んで、脳の片隅に追いやってしまうのだ。休む時間も必要だから、夜はゆっくり過ごす。そうすると、悩みや苦しみが顔を出してきて、気持ちをコントロールすることが出来なくなる。朝も朝で、はっきりとした気持ちの切り替えが難しいが、引きずってばかりもいられないので、家を出る時には振り切ってしまう。憂鬱な時間が毎日繰り返されていく。

 

 ただ、これだけ悩んでいると有益な発見もあった。悩むといっても、2つのパターンしかないことに気づいた。第一は、過去や変更不可能なことに対する落胆や怒り。もう一つは、本当にやりたいことははっきりしているけれども、社会的な要因を考えると踏ん切りがつかず、逡巡することだ。前者については、完全に考えないようにすることは難しいけれど、あまり生産的ではない。後者の悩みを掘り下げると、何かを論理的に考えた上で、結論を探るものではなくて、むしろ答えが先に存在していて、行動に起こす勇気が持てずに、出来ない理由を探している気さえする。何か行動を起こすこと、何かを変化させることには、必ずリスクを伴うのだから。

 

 だからといって、周囲の視線や規範を気にして、自分の意思に反することを行い続けるだけの人生は、考えるまでもなく楽しくなさそうだ。それだったら、やりたいことをやりたいという気持ちもある。やりたいことをやるには、必ずリスクがある。それでも、リスクも承知の上で、自分で引き受けることに挑戦するだけの価値はあるのではないか。受け身で後悔に満ちた人生よりも、主体的でリスクと隣り合わせの人生を選びたい。

 

 さっきから、リスク、リスクと繰り返しているが、それは、せいぜい侮蔑されるとか爪はじきにされるとか就職できないとかいったことで、刺されたりするわけではない。自分が精神的に追い詰められることはありうるが、それはそれでいいんじゃないかなと思う。どうせ今でも飛び降りてしまう可能性もあるし、どっちみち人間はいつか死ぬのだから、やりたいことをやってから、どうするか決めればいいだけの話だ。

 

 それに、環境も味方してくれるはずだ。休学前は、誰にもセクシャリティーのことを打ち明けられず、相談することさえ出来なかった。それに比べれば、サポートしてくれる友達も先生もいる。どこまで本心なのかは分からないけれど、見捨てられないと信じてみたい。

 

 生きる目的は、社会の規範を守るためでも、他人の期待に応えるためでもなくて、全て自分のためで、それを実現できるように生きていたい。

 

 とかいって、些細な言葉に傷ついたり、他人に都合よく使われたり、苦しみから逃れる安直な方法に逃げようとすることが、無くなるわけではない。決意が揺らぐことも絶えないだろう。そういう時は、いつも通りブログにぐちぐちと思いのたけを書きまくることにしておく。それでいいと思う。

 

 自分のために生きる。これが当面の生きる方針だ。

見た目ってそんなに大事ですか アンチルッキズム

  人は見た目が9割というし、一目みれば性別・年齢層はもちろん、性格や生活態度、所得もある程度、推測することが出来る。人間が人間である限り、見た目から何の感情も情報も得ないようにすることは不可能だ。けれども、365日24時間、公的・私的を問わず、私たちを縛り付けるに足るぐらい見た目は大事なのだろうか。

 

 俳優やモデルといった見た目が大事な職業はまだしも、一般人がお互いの見た目をチェックし、品評し、盛んにおしゃべりすることは。問題を生み出していないといえるのか。個人が見た目についてあれこれ思う分には勝手だとしても、それを口に出すことが許容されやすい社会には、違和感を覚える。

 

 その人がアピールしたわけでもないのに、他人が容姿について語り合うことは、もはや日常の風景となっている。「イケメン」とか「かわいい」とか褒めるだけではなく、「ブス」といった貶す言葉が、簡単に使われる。容姿によって引きおこされた感情が本当に心から感じていることだとしても、そのことを発言してよいかどうかは考える余地があるのではないか。

 

 「外見に基づく差別や偏見」のことをルッキズムというが、ルッキズムは他の差別に比べて許容されやすく、あまり意識されていないように思われる。これが、人種差別の文脈ならもっと繊細に扱われるはずだ。人種が違うからといって、それについてどう思うかを煽情的に品評するのは、憚られることだろう。

 

 また、個人の身体へのコントロールという点でもルッキズムは批判できる。望ましい顔、望ましい体型、望ましいファッションが形成され、理想の容姿が規範として、人々の中で形成される。これが個人的な感情の領域を超えたとき、他人に対する身体へのコントロールに転じていく。何らかの組織に所属し、その組織のルールに同意している場合を除いて、根本的には、どんな容姿でもどんな格好でもその人の自由であるはずなのに、規範から外れたものとして批判され、時には差別を通じて、間接的な介入が試みられる。この規範というのは、決して本質的なものではないし、個人の好みや偏見によって形作られるものであり、これに従うべき論理はどこにもない。極端な例をいえば、健康上は何の問題もないのにダイエットに走る中高生は、まさにその犠牲者である。彼女たち(彼ら)が自分で選択したことであっても、その意思決定の背後には、他者から評価されるためには、規範に従わなければならないという圧力が潜んでいる。

 

 さらに言えば、ルッキズムは性差別とも結びついている。たとえ当人が恋愛的感情を持っていなかったとしても、異性としての魅力があるかどうかを、外見によって批評されることはありうるし、実際行われているだろう。公的な場で堂々と行えばセクハラとして摘発されることはあっても、本人がいない場所であれこれ言うのをやめさせるのは難しい。これは完全に主観になるが、そういう状態はとても気持ちが悪いと思う。自分が身体的魅力をアピールしているわけでもなく、相手とはビジネス、少なくとも恋愛などを求めていない場で、話がしたいだけなのに、裏では自分の外見について、魅力があるかどうか、性的に惹かれるか、どんな生活を送っていそうかとゴシップのように噂されて、その話題が共有されるということを喜ぶ人はいないだろう。恋愛的または性的な欲望の対象としてみれるか否かは、「異性としてみれる」という言葉で端的に表現され、まさにルッキズムと性差別が密接に関わっていることを示している。

 

 ルッキズムは様々な問題をはらんでいるが、今すぐすべての差別や偏見を撤廃することは不可能だろう。内心の自由は必ず守られるべきであり、表現の自由も原則として認められなければならない。私も他人の考えを無理やり変えられるとは思っていない。けれども、問題提起をすることで、生きやすい社会に向けて、小さな一歩を踏み出せればと願っている。少なくとも私は、ルッキズムの被害者にも加害者にもなりたくない。「見た目ってそんなに大事ですか」―常に自問自答を繰り返しながら、いつか毅然とした態度で答えられるようになりたい。

やりがい搾取から主体性を取り戻すまで②

 前回の記事からリアルタイムでは3か月が過ぎ、現在のやりがい搾取に対する考えと主体性を取り戻すまでの経過を書いてみる。

 

 やりがい搾取という言葉を分解すると、誰かによって自分が「やらされている」と感じ、その奉仕の程度が大きい状況という定義になる。では、なぜその状況に陥るかといえば、他に出来る人がいないことが最大の原因のように思われる。出来ないと一口に言っても、能力的に出来ないこともあれば、時間を割ける人がいない時もあるだろう。こうした状態は、どんな組織でも多かれ少なかれあることだが、その負担が大きすぎたり、モチベーションを失ったりすると、搾取されているという感覚が強くなっていく。

 

 私の場合は、他に出来る人がいないということを強く感じていた。傲慢な考えだとも思うが、実際に抜けてしまえば、組織が回らなくなっていたのは間違いなかったはずだ。だから、その組織のために半ば進んで奉仕していた。もちろん、サークルなので報酬もない。その結果、成果を出すことを自分も周囲も当然視するようになり、搾取されていると思うに至ったのは、前回の記事に書いた通りだ。

 

 ただ、本当にそれだけだったのかという気持ちもある。与えられた課題をこなすこと自体にはやりがいが確実に存在したし、少なくとも2番目のサークルでは、活動それ自体が嫌いになってしまったわけではなかった。なにより、「やりがい搾取」の状態に陥ったのは、自分の意思によるところが大きい。誰かから無理やりに強制されて、何かをやらされることは一度たりともなかったのだから。

 

 本当の問題は、主体性を失って、自分にとって何のメリットがあるのか、分からなくなったことにある。最初は、自分の意思決定に基づく行動であったものの、次第にやらなければならないことが増えるにつれ、目の前にある問題に対処することで精一杯になっていた。そうなると、当初の志を忘れてしまい、何のためにやっているのかという目的をはっきりさせないまま、ただ目先の与えられた課題をこなし続けるだけの日々に変貌してしまった。

 

 他人に都合よく「使われている」だけなのは、自分が選び取った結果でもある。このことに気づいた時、自分の人生は自分で決めるという軸が定まった。本当にやりたいこと、目指しているところを見据えて、実現するためには何をするのかを考えた上で、行動を起こしていく。これこそが、私なりの主体性を取り戻し方だ。

 

 いったん立ち止まって、何をしたいと考えているのか、大きく言えば、人生で何をしたいと考えてみることにした。まだ目標がはっきりしないところは、自分が楽しい、これなら続けたいと思うことを書きだしてみた。その中で、優先順位をつけ、一番やりたいこと、やるべきことは何か、全てを手に入れないなら何を切り捨てられるのかという基準を決めた。重要ではないと判断したものについては、他人に任せられるところは任せようとしているところだ。そもそも、一人に負担が集中している組織は、運営がうまくいっていない結果であり、一人で何とかしようとするのは、少しうぬぼれすぎている気もする。

 

 こうした考えに至るまでには、思索にふけるだけではなく、他人の言葉や本から学んだことが多い。その中でも、自己啓発の古典として知られる『7つの習慣』を大いに参考にした。次回の記事では、『7つの習慣』のマンガ版の中から、主体性と優先順位について書かれた章をご紹介したいと思う。

やりがい搾取から主体性を取り戻すまで①

 3か月前に「サークルのやりがい搾取」という題で、記事を書いたものの、愚痴っぽくなったので公開していなかった。今、この記事を読み返してみると、なんとも他責的で情けなくなってくる。逆に言えば、この3か月で物事の捉え方が変わり、過去の自分を俯瞰して見られるようになるほど成長したのかもしれない。

 

 今回は、3か月前の文章を公開し、次回の記事でどのように捉え方が変わったのかを書いてみようと思う。以下は、当時に書いたそのままの文章。

 

 

 自分がいなければ回らない組織は存在意義を与えてくれるし、やりがいもある。だけれど、それが常態化して本人のキャパシティーを越えてしまったらどうなるだろう。この前まで、やりがいの奴隷となって、ひたすら組織のために尽くすことが求められていた。仕事ではなく大学のサークルの話だが、学ぶことも多かったので振り返ってみる。

 

 サークルには金銭的な報酬が存在しない。その代わり、楽しさやコミュニティーを与えてくれる。その意味では、根本から「やりがい搾取」に陥りやすい構造になっているといえる。サークルが存続していくためには、サークルのメンバーが様々なタスクを分担していく必要がある。自分だけがサボることは周囲からの批判の対象となるし、自分ひとりのせいで多くの人に迷惑をかけてしまうことになるので、途中で投げ出すことは許されない。何らかの役職についていれば、なおさらだ。それでも、ほとんどの人が投げ出さないのは、その関わりの中で楽しみや成長を見出せるからだと思う。そのことは決して当たり前ではなく、それが出来ない人も生まれざるを得ない構造がある。

 

 一つめのサークルは、外部の人に向けてパフォーマンスを行う団体だった。定期的に開催されるイベントでお客さんに楽しんでもらうことがサークルの目的である。だが、あまりにも準備することが多く、自分の能力の低さに嫌気が差し、挫折してしまった。人間関係がうまくいかなかったこともあるが、一番の失敗はやりがいが見いだせなかったことだ。何のために準備しているのか、突き詰めればお客さんを喜ばせたところで自分に何のリターンがあるのかと思った。他のメンバーは、準備をすること自体に楽しみを感じたり、自分の能力を他人の前で表現できることにやりがいを感じていたのだろう。私の場合は、確かに自分がいなければイベントが成り立たないということには、やりがいは確かに存在した。しかし、それは重荷でしかなく、やめたいのにやめられない状況に陥っていた。やりがいは、もはや報酬ではなく呪縛でしかなかったのだ。

 

 紆余曲折の末、このサークルは脱退し、別のサークルに加入した。二つ目のサークルでは、自分の適性と非常に合っており、能力を最大限生かせる場所だった。サークルのおかげで楽しさを感じられていたので、サークルに恩返しがしたいと思って、責任の重大な役職に就くことにした。周りの人も私を慕ってくれたので、能力も時間も投資して共によりよいものを作ろうと熱中した。あまりにも負担が集中していることを心配してくれる人もいたが、自分がいなければ成り立たないという状況が心地よかった。常に存在意義を確認でき、承認欲求も満たされ続けた。だが、3か月が過ぎたころ、段々と負担に感じるようになってきた。サークルのための奉仕が常態化しすぎて、求められるハードルが上がってきたのだ。こんなにサークルのために尽くしているのだから、感謝されるだろうという思い込みが徐々に裏切られることになる。

 

 次から次へとタスクが舞い込む一方で、感謝が少なくなり、批判が増えてきた。私の傲慢さが露呈していたのかもしれないが、あまりサークルのために貢献していない人に注文をつけられることに腹が立った。改善するためのプロセスだと分かっていても、こんなに努力しているのに、何も努力していない人になぜ批判されなければならないのか、傍観者である君たちにそんな資格はないんだとさえ、思うようになった。努力が評価されることにやりがいを感じていただけに、やりがいを見失ってしまい、いつしかサークルのために尽くすことが馬鹿らしくなっていた。そこで初めて、やりがい搾取の構造に気づいた。私はサークルのために必要なことを行い、周囲の人は報酬に感謝の言葉を述べることで、運営が成り立っていたのだ。そこまでなら健全な関係性だったが、私の留まることを知らない承認欲求と周囲の期待が相まって、持続不可能なレベルにまで達し、ついに構造は破綻寸前に陥ってしまった。ここまでくれば、後の祭りだ。被害妄想のジェットコースターに突入し、周りの人から都合よく利用されているだけだと思い込み、次々と期待を裏切った。

 

 やりがいは、人生に意味を与えてくれる。やりがいがない仕事は、きっと苦痛だろう。だが、やりがいに依存すると自分の首を絞めるはめになることを学んだ。サークルというコミュニティーに苦手意識があり、どうすればよいのかは未だに分かっていないが、自分も周囲も楽しめており、その関係が持続可能であるというのは楽しく過ごすには必須なのだろう。やりがいは万能薬ではない。この言葉を肝に銘じておくこととする。

睡眠不足と希死念慮

 ここ2週間ほど希死念慮に苛まれていた。もともとネガティブな面はあったとはいえ、今ここで事故に巻き込まれたら楽になれるだろうかなんて考えながら、寸前のところでなんとか思いとどまった。

 

 そんな憂鬱な気持ちを抱えながら、勉強に課外活動にと熱心に励んでいた。授業もたくさんとり、空き時間には、宿題はもちろんのこと、バイトの研修、英語の勉強、Webサイト作り、サークル、将来につながる活動など、これまで暇を持て余していたのが信じられないほど精力的に動いた。どれも自分の生活や能力をよくするためのもので、それ自体に苦痛は感じていなかった。しかも、体調を崩さぬように、食事を抜かすことはしなかったし、睡眠時間も6時間は確保するようにした。

 

 何をどの順番でやるべきかを常に考えながら、昨日から今日、そして明日の自分へと成長し続けることは、漠然と生きていた私に活力を与えてくれ、一種の陶酔感すら感じていた。その一方で、頭痛や吐き気といった身体的な不調に襲われるようになった。が、少し体調が悪いことは、私にとっては日常茶飯事であり、たいして気にかけようともしなかった。それよりも、もっと成長しなければならないという観念にとらわれていて、それどころではなかった。6時間という睡眠時間は、一般的にみれば少なくはないはずだし、休日に寝だめをすれば、なんとかなるという根拠のない確信があった。

 

 その休日もやることがあり、早起きをしなければならなかったので、4月1日から走り続けてまともに休めたのは、大学の創立記念日である4月12日だった。それまで身体的な不調はひどくなる一方で、精神的にも追い詰められるようになっていた。それは、単に、やることがたくさんあるというだけではなくて、生きていることに価値が感じられなくなったり、将来を悲観したりといった別のネガティブな感情によっても引き起こされたものだ。

 

 待望の休みに12時間も眠り続けて、この日は出来るだけ他のことに手を付けず、だらだらと過ごすことにした。すると、体も心も軽くなり、前日までの不調が嘘のように、元気を取り戻すことが出来た。眠ったからといって、やるべきことが減ったり、将来の見通しがよくなったりするわけではない。けれど、だからといって今すぐ死ぬ必要はどこにもないし、その時が来てから悩めばいいだけじゃないかと思えるようになった。

 

 これは、あくまで一体験談に過ぎず、全ての人に適用できるわけではない。ただ、メンタルヘルスの問題を考えるにあたって、身体的・物理的な疲労が関わっている一例として参考にできるのではないかと思う。

 

 睡眠不足と憂鬱感について調べてみると、このようなツイートをみかけた。

 この方は医療関係者ではなく、そんなに甘くないという批判も寄せられてはいるが、メンタルに対するフィジカルなアプローチの提示は、一定の意義があると感じた。眠ることと食べることが可能ならば、一度その方法を試してみて、それでもうまくいかなければ別の策を考えればいい。

 

 大学の自殺予防のリーフレットにも似たようなことが書いてあった。そこには、「睡眠不足が続くと危険!一日でも眠らないと参ってしまうこともある」と記載されている。大学という公的な機関が配布しているものなので、何らかの裏付けがあってのことだろう。

 

 私の話に戻ると、睡眠時間6時間というのは十分ではなかったのだろう。普段、毎日8時間は眠っているし、休日は10時間近く眠ることも多々あることを考えると、睡眠不足になっていたのかもしれない。時間を惜しんで睡眠時間を削った結果、不調に陥って、効率が落ちれば本末転倒だ。いつでも十分な睡眠時間を確保できるわけではないが、このことは肝に銘じておこうと思う。疲れた時には、ご飯を食べて、しっかり眠る。難しいことは、それから考えればいいだけの話だ。